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見ていた青春-その1-東大教養学部自治会副委員長の二戸左登志の場合
-旧制浦和高等学校理科に入学した三人のその後の人生-
The Youth I Witnessed - Part 1 - The Case of Satoshi Ninohe

見ていた青春-その1-東大教養学部自治会副委員長の二戸左登志の場合 夏森龍之介

旅のエッセー集 甲斐鐵太郎

見ていた青春-その1-東大教養学部自治会副委員長の二戸左登志の場合 夏森龍之介

見ていた青春-その1-東大教養学部自治会副委員長の二戸左登志の場合 夏森龍之介

海辺の風景。エッセー「見ていた青春」(旧制浦和高等学校理科に入学した三人のその後の人生)


写真は1950年5月16日東京大学構内におけるイールズ声明反対闘争

(タイトル)

見ていた青春-その1-東大教養学部自治会副委員長の二戸左登志の場合 夏森龍之介

(本文)

旧制中学三修で海軍兵学校生徒に

 太平洋戦争の最末期、海軍兵学校は海軍兵学校は大量に生徒を募集した。それまで旧制中学校4年修了だったものを三年修了に繰り上げての募集であった。募集は1944年の夏。翌年の1945年4月に入学させた。

 父親が海運会社の航海士であったことから神戸で生れた二戸左登志(にのへ さとし)は父親の生まれ故郷の会津に疎開し、会津中学にいて、三修(さんしゅう、三年修了の意味)で江田島の海軍兵学校に入校した。入校の生徒数が多かったために本校のほかに分校がつくれてていて二戸左登志は江田島にある大原分校の海軍兵学校生徒となった。

 このころ既に江田島は米軍に制空権を奪われていて艦載機が頻繁に襲ってきて爆撃や機銃掃射をした。地下に教室をつくることになって入校早々、二戸左登志らの一年生(一号生徒)は、上級の二年生(二号生徒)、三年生(一号生徒)らとともに、瀬戸内の島特有の砂岩に穴を掘っていた。すでに兵学校は教育どころではなく本来はすべきでない穴掘りで一日を過ごしていたが、日本軍隊の野蛮な精神主義による鉄拳制裁だけは変らなかった。

江田島から海軍兵学校生徒が見た原爆の爆発の様子

 海軍兵学校入校から四カ月の1945年(昭和20年)8月6日、月曜日の 午前8時15分、二戸左登志の分隊が食事を済まして隊伍を組んで移動しているときのことであった。凄まじい閃光で眼の前が明るくなった。光は広島市方面。空にキノコ雲が盛り上かり、一分ほどして爆発の轟音が響いた。広島上空に雲が膨れあがった。その雲は夜には赤い色もまじっていて不気味であった。赤い色は広島市街地の火災が映ったのだろう。雲の下では黒い雨が降っていたのだ。海兵生徒は原爆投下のその訳が分からず防空壕を出たり入ったり、うろうろしていたた。江田島の校舎のどこかのガラスが割れたということが聞こえてきたがそれ以外の知らされなかった。江田島に空襲警報は出ていないなかでの原爆投下であった。

玉音放送

 江田島の海軍兵学校生徒にも1945年8月15日、水曜日の正午の玉音放送は知らされていた。全員校庭に整列して聞いた。雑音がひどくて聞き取れなかった。これは二戸左登志の回想である。その後に日本が負けたことを教えられた。負けるとはどういうことか、理解でなかった。そのうちアメリカ軍か占領するのだという。各分隊の小銃を一箇所に集めるように指示された。指定された場所に持っていくと、「海中投棄 無念」と書かれていた。そのうち、軍隊はなくなるのだ、海軍兵学校は閉校になり、生徒は皆故郷に帰るのだ、と聞かされた。負けるとはこういうことかとおぼろげに理解した。

海軍兵学校閉校と帰郷

 海軍兵学校閉校にともなう帰郷の日は8月末であった。生徒の郷里の方向別に組織されて、小さな船で広島港のある宇品に連れていかれた。広島港から広島駅までの線路沿いはビルの残骸だけが形を残していた。一面は焼け野原。広島駅は列車を待つ人でごった返していた。

 列車がいつ来るかわからない。群衆は長時間待っている様子であった。しゃがみこんでいる人々の付近には荷物が置かれ、ゴミが散乱していた。片隅に汚物が積み上がり饐(す)えた匂いが漂う状態であった。やっと列車がきても満員状態。それでも乗り込もうとす躍起になり屈強な復員兵が女子供を突き飛ばしていた。窓ガラスを割って乗り込む。戦争に負けるとはこういうことなのか、と二戸左登志は思った。
 二戸左登志の組の海兵生徒たちはそのうち貨車に乗り込むことができた。乗車したのは石炭を積んだ無蓋車(むがいしゃ)であった。トンネルが多い山陽本線であるから、無蓋車は蒸気機関車の煙に覆われ息ができない。鼻と口を押さえて息を止めてトンネルを抜けるのを待った。北陸本線を経由して会津に辿り着いた。1945年9月1日、海軍兵学校入校から5カ月して元いた旧制会津中学の4年生に復学した。

会津中学校から浦和高等学校へ

 敗戦の1945年の秋、A級戦犯が相次いで逮捕され、12月には梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう)元帥も逮捕された。会津中学の生徒10人ほどが「皇族を逮捕するとは何事か、これを見過ごしていいのか」と校長室に押しかけ、そのなかに二戸左登志が含まれていた。戦時中の軍国少年ぶりと天皇崇拝がそのまま残されていた。世の中は民主主義の時代になったのだ言われたが二戸左登志には、それは胡散臭いものであった。

1947年2.1ゼネストと会津中学生徒の教師糾弾

 1947年の初め、2.1ストに向けて労働運動が盛り上がり、会津中学でも教員たちはストをしようとして生徒に説明した。生徒は「なぜ先生がストをしなければならないのか、それは先生の責任放棄ではないか」と納得せず、先生たちを糾弾した。教員たちが時代の潮流にあわせて動いていたのに対して、旧制中学校生徒はそれに背を向けていた。

1947年に旧制浦和高等学校理科に入学

 物理や化学が得意科目であったこともあって二戸左登志は1947年に旧制浦和高等学校の理科に入学した。浦和高校は旧制の東京大学への進学率が旧制第一高等学校に次ぐ二位、三位は旧制静岡高校であった。旧制高等学校の卒業年数は三カ年。

 旧制浦和高等学校と文科、理科の内訳は次のようであった。
 文科甲43名、乙39名、丙37、理科甲44名、乙35名、丙0、総数198名。甲は英語、乙はドイツ語、丙はフランス語が第一外国語。理科の丙はごく限られた旧制高等学校に設置されていた。なお旧制第一高等学校の入学定員は甲125名、乙36名、丙38、理科甲107名、乙91名、丙0、総数397名。

 帝国大学の入学定員は旧制高校の卒業者数と同じにしてあったので、帝大進学は学科学部の進路振り分けに相当した。旧制東京大学の卒業年数は三カ年。

 好きで理科に入った二戸左登志の関心は運動華やかであったマルクス主義に移る。熱心なマルクス主義の信奉者になっていた級友の誘いでマルクスの初歩的な文献を読むようになった。民衆のエネルギーの高まりのなか、1949年1月総選挙での共産党の大躍進して35名が当選したのを喜んだ。

 マルクス主義に惹かれながら、すっきり納得したわけではなく、マルクス主義への懐疑を残していて、キリスト教の教会を覗いてみたり、宗教や哲学などさまざまな書物を読みあさっていた。

 理科への意識が薄れ、学校の勉強がおろそかになって、1949年初め、2年生の学年末試験で落第する。この年は学制改革の年で、1947年入学の二戸左登志のクラスが旧制高校最後のクラス、下の1948年入学の生徒は1年生を経験しただけで旧制高校は廃止ということになった。2年生で落第すると下がいないので、落第即放校になった。

 こうした場合には旧制浦和高校生徒は新制の埼玉大学に自動的に移ることになる。二戸左登志は1929年12月10日生れ。映画監督になる熊井啓は1930年(昭和5年)6月1日生れ。旧制松本高等学校に1948年(昭和23年)、18歳で入学。学制改革にともなって1949年(昭和24年)、19歳のとき信州大学文理学部に入学した。演劇活動を続けるためにその地に留まった。東京大学を受験して進学する道があったはずである。

旧制浦和高等学校理科に入学した三人のその後の人生

 筆者が知る東京生まれの井伊浩市は1931年(昭和6年)6月1日生れ。熊井啓の一学年下であり、二戸左登志と同じ旧制浦和高等学校の理科にいた。二戸左登志と井伊好蔵は旧制浦和高等学校の理科に同時期に在籍していた。このころ旧制浦和高等学校の理科で在籍していたのがこれも筆者が知る大嶋太朗。大嶋太朗は1929年3月31日生れ。旧制群馬県立太田中学校4年修了で1945年4月に旧制浦和高校在学中に理科に入学。1947年に旧制浦和高校文科一年二組に転科してもう一度一年生として勉学した。経歴書には二組とある。一組が英語の甲で二組はドイツ語の乙であると想定される。二戸左登志、大嶋太朗、井伊浩市の三名は筆者が知る人であり前二者は大学の教員、三人目は技術官僚。大嶋太朗は旧制高等学校で理科から文科に転科、二戸左登志は旧制高等学校を放校処分となって、新制の東京大学の文科に入学した。これも一つの転科である。転科によって一年生をもう一でやり直した大嶋太朗。落第で一年留年した二戸左登志。これより遅れて旧制浦和高校在学中に理科に入学した井伊浩市の三人であった。大嶋太朗は4年修了で入学、しかも3月31日生れであるから、同じ年齢でも二学年の得があることになる。一年の遅れなど気にならない。大嶋太朗は就学年限三年の旧制の東京大学法学部政治学科に進み、二戸左登志は就学年限四年の新制の東京大学経済学部に進んだ。井伊浩市は就学年限四年の新制の東京大学理科一類から工学部応用物理学科に進んだ。筆者は『官僚国家と地方自治』があり、講義を受けるのが一人ということもある大嶋太朗の授業に出ていた。法学部を終えて経済学部に学士入学するときの推薦状には大嶋太朗の名前が書かれていた。

 戦争末期には旧制高等学校の理科生徒などは徴兵猶予となっていた。東京物理学校は未試験で入学できたことから旧制高等学校の試験に落ちた生徒が徴兵逃れのために逃げ込む場所となっていて、そのなかには高級将校の子弟が多くいた。

 二戸左登志、大嶋太朗、井伊浩市と同じ年代なのが宇沢弘文(うざわ ひろふみ)である。宇沢弘文は1928年(昭和3年)7月21日生れ。旧制第一高等学校の理科を経て旧制東京大学の数学科に進む。進級のための単位不足を同級生たちの学校への特別の掛け合いによって卒業扱いとなった。食糧難によりラグビー部の試合の時以外は寮で寝ていて授業にでなかった。このために卒業の規定を満たす単位を取得できなかった宇沢弘文の数学の才能を惜しんで級友たちが高等学校長を説き伏せたのであった。宇沢弘文は東京大学理学部数学科を卒業した後に特別生として大学に残る。教員候補の有給の助手の扱いである。宇沢弘文は自身の栄養失調の経験などもあって数学を貧困日本の救済のために使うと考えた。周囲の反対を押し切って経済学に進路を変更した。二戸左登志は東大経済学部で修士課程とこれに続く博士課程を終えている。二戸左登志と宇沢弘文にどのような関係があるのかは確かめられない。宇沢弘文は二部門成長モデルせ業績を残す。二戸左登志は大学院で山田盛太郎の指導を受ける。戦中の日本経済の構造をマルクス主経済理論で解き明かす試みをした『日本資本主義分析』が山田盛太郎の業績。新制東京大学文学部で歴史学を専攻し、大学院に進むときに歴史学にするか経済学にするか迷った二戸左登志である。選んだのは経済学であった。

 二戸左登志、宇沢弘文の理科から経済学に進み、大嶋太朗は理科から旧制高等学校在学中に文科に転科し、旧制東京大学法学部政治学科を卒業、同大学社会科学研究所の助手となって研究生活を始めた。井伊浩市は理科で通したが行政官僚として最高位に就いている。

 旧制浦和高校を2年で放校となった二戸左登志に親身に接したのがクラス担任だったドイツ語の先生。その年開校の新制大学受験を進められ、6月実施の新制東京大学(就学年限4年)の入試に心機一転して打ち込み教養学部文科二類に合格した。クラス担任の先生は後に東大教授に就任、定年後にある私立大学文学部教授となった。この私立大学で二戸左登志と担任だった先生は教授として教壇に立つ。

東大に進学して全学連副委員長となった二戸左登志

 旧制会津中学校を三年修了で江田島の海軍兵学校に入校して5カ月で終戦となり兵学校閉校となり、四年生として会津中学校に戻った二戸左登志は、その後旧制浦和高等学校理科に進んだ。一年留年したら学制改革でこの学校も閉校となったために新制大学入校のために受験しなおさなければならなくなった。投げやりな気持ちを取り直して新制東京大学(就学年限4年)の教養学部文科二類に合格して1949年夏に入学、駒場寮で生活するようになる。

 旧制浦和高等学校でマルクス主義の洗礼を受けていた二戸左登志には東京大学教養学部と駒場寮は精神を開放する場となった。入寮した駒場寮の夏は蒸し風呂であった。資本論を読み始めた。難解さに苦労した。

 新制東大第一期生である二戸左登志たちは学生自治会結成の運動の波に自ずと飲み込まれた。積極的に運動に関わっていた二戸左登志は結成さた教養学部自治会の副委員長になった。副委員長の任期を終え1950年の夏には全学連の書記局の任務に就いた。教養学部初代学部長の矢内原忠雄とは団交でやりあった。

 全学連の書記局は東大本郷のグラウンドの地下室にあった。毎日通って「学生新聞」を編集し、宣伝ビラ作った。集会やデモを組織しこの運動のために全力を尽くした。

 1949年にはGHQの顧問イールズが赤色教授追放を説くために各大学を行脚した。1950年5月、東北大学の学生がこれに抗議して講演会を流会させた。運動を推進した学生が逮捕された。このことが全国の学生には占領後最初の公然たる反帝国主義闘争として刺激を与えた。事件を契機に全国各大学でレッドパージ反対運動が燃え上がる。全学連は各自治会にゼネストを呼びかけた。1950年 9月、東大教養学部学生自治会はレッドパージ反対を旗印に試験ボイコットを試みた。教養学部における一般試験ボイコットを全員投票で行った。

 試験当日、登校してきた通学生をキャンパスに入れないように、寮の学生たちは正門前にピケラインを張った。これに対して矢内原学部長は警官隊を導入し排除にかかった。このことが学生たちを憤激させた。試験ボイコット反対の学生までがスクラムに参加した。警官隊によって崩されたピケラインを通って試験を受けることは心苦しい。警官隊によって開けられた門を不浄の門だという声があがった。「不浄の門からは入らない」と宣言が発せられ、これに皆が賛同した。矢内原学部長は試験延期を認めざるをえなくなった。このような1950年 9月、10月の東京大学教養学部の一般試験ボイコット運動であった。

 新制東京大学教養学部に第一期生として入学した『全学連血風録』の著者大野明男が次のように証言する。

 学生投票は「約1800対1000」の差で、「試験ボイコット・スト決行」を可決。ストの2日前、正門前のピケット・ラインに警官隊が突っ込んで揉み合いになり、破られたが、ある学生が「ボクは警官隊がつくった道を通って受験しようとは思わない」と叫んだため、スト反対派の学生も動かず、矢内原学部長が南原総長に電話で報告のうえ、「試験中止」を発表する。そして天野文部大臣は「レッドパージの中止」を発表。

  私たちは、1つの「勝利」を得た。その代償として13名の「退学・停学処分」があり、私自身は「復学」することもなかったが、この「10月闘争」のことを1度も後悔したことはない。多くの学友も、ストに賛成した者も、反対した者も、「退学・停学」で「復学」まで遠回りを余儀なくされた者も、ほとんど全員が「後悔」などしなかったはず、と断言できる。

 「職を賭してもレッドパージを行う」という姿勢で知られる天野貞祐(あまの ていゆう)文部大臣は、第3次吉田内閣で文部大臣を務めていた。昭和20年代後半のレッドパージ(共産主義者追放)の波の中で、文部大臣として教育界における共産党員や同調者の排除を推進した。1950年頃から始まったレッドパージは、GHQの指令下、公職追放に次いで大学や教職員組合を対象に行われた。天野文相は、教育界の安定と民主化を大義名分として、この方針を強く支持した。

 二戸左登志は次のような談話を残している。「職を賭してもレッドパージを行う」と明言していた天野貞祐(あまの ていゆう)文部大臣は、方向転換して大学の自治を口にするようになった。

イールズ旋風と東京大学社会科学研究所職員組合の取り組み

 東京大学社会科学研究所助手時代の福島新吾が経験したイールズが赤色教授追放と東京大学社会科学研究所職員組合の取り組みを福島新吾の回想から拾う。

福島新吾の回想

 当時CIEのイールズが新潟大学で左翼教授追放の演説を行ったので、教授連でこれに反撃しようと、総司令部 CIE に7月16日ルーミス、8月4日にはイールズを訪れ米国の有名なHolmesとBrandeis両判事のa clear and present dangerを生み出す状況がないかぎり言論を抑制すべきではないとの判例をあげて、左翼教授の学問の自由を擁護した。民間でどこかの州のcountyの教育長だったらしいイールズはそんな憲法の常識すらなく答弁に詰まった。

 この時案内した学生が高沢寅男(故社会党議員)と戸塚秀夫(元社研教授)だった。この頃から学習運動の助言者も命じられて様々の会合に出掛けた。大学法の解説から破壊活動防止法案など次々とテーマは変わった。スターリンの社会主義経済の諸問題なども大真面目に指導した。塩田退職で社研職組委員長になった 1949年12月、恒例の年末一時金闘争が東大職組でも盛り上がった。当時南原総長は対日講和の意見交流で渡米中で瀬藤象二工学部長が代理であった。

 大学事務局の警備不足をついて組合側は大衆交渉にもちこみ、馴れぬ瀬藤に一時金支給の調印をさせた。これが懲戒問題となり約二年公聴会での係争の後原田正道委員長(第二工学部助教授)、大山勲副委員長(理学部助手)は休職、身分保障の無い福本書記長(本部事務局事務官)は気の毒にも解雇となり東職はその救援活動も出来ず、行き詰まった当人は数年後自殺する悲劇に至った。

 この間朝鮮戦争が始まり共産党議員は追放され、幹部は地下活動を開始しいよいよファシズムの出現と緊張した。アカハタが戦争報道により発行禁止となると、戦前の経験にものをいわせて党は次から次へ禁止をくぐってその代替紙や、「占領目的阻害行為禁止令」違反となるコミンフォルム機関紙「恒久平和のために!人民民主主義のために!」、地区の党紙などの非合法紙を発行した。その秘密配付が党員の大きな仕事となり、現物を持って警官に自転車の無灯火で意見されたり、大晦日に大量の束を受け取り、新年は縁の下に隠し持ったりヒヤヒヤした。東職本部が懲戒反対闘争に明け暮れているうち連合体の東職の各単位組合は休眠状態におちいった。

 委員長交代が出来ず1年半が過ぎた。組合保全のため放置出来ないとついに 51年4月頃組合新参の私が半年と期限をきり工学部助手の高橋昇書記長(現『技術と人間』編集長)と組んで委員長になった。私は3月に結婚したばかりであった。初代の長畑一正(病院)二代原田は助教授で助手は異例であった。就任にあたり社研のスタッフに挨拶したら昇格に響くと警告されたがそんなことは無関係とつっぱねた。医学部(付属病院)、農学部、理学部、工学部、第二工学部(千葉)のほか学部には単位組合は無く、地震研、本部事務局、史料編纂所、理工研、新設の社研の連合であった。

 しかも朝鮮戦争開始から一年、米占領軍の戒厳体制はますますきびしく、学内には本富士署の私服刑事が多数歩きまわっていた。1952年2月の「ポポロ事件」で学生が取り上げた私服刑事の警察手帳(「吾々は告発する-警察手帳の全貌-」)にも私の大学への出入がメモされていた。当時東職委員会はかろうじて四五人の出席で、活動といっても最低限の情報ビラを委員長、書記長と学生書記の四人位で大学構内各所にちらばる連絡のない単位組合の職場まで配って歩く始末だった。だが病院の看護婦が組合のビラなど何年振りと感謝され、工学部の技術実習担当の高齢の元労働者などは、好意をもって受け取りながら弾圧されるぞ気をつけろと戦前の経験を語って励まされた。

 外部では書記長と二人だけで芝公園のデモ禁止のメーデーや労働者決起大会に参加したり(手帳に記載)、無謀にも少数の委員会で差し迫るサンフランシスコ平和会議に向かって 8.15までの数日講演と映画の「平和祭」を計画、人脈を存分に生かして法哲学の尾高朝雄、大河内に紹介された官庁エコノミストの稲葉秀三、渡辺一夫にことわられて一高の恩師フランス文学の市原豊太の三氏を引出した。それに毎日一本づつ反戦映画、「また逢う日まで」「大いなる幻影」などを上映した。これで少しは組合員も参加するかと期待したが、強権横行の時代、私服刑事が入り込む状況で学生(夏休みで半年後の「ポポロ事件」の時のように刑事を捕らえるほどの数がなかった)や、ひそかに呼びかけた本郷周辺の労働者、在日朝鮮人の方が多かった。

 最後の8月 14 日第二食堂で平和祭を開こうとしたが、まず大学の用務員、それを説得すると本部事務員、さらには鉄門前に集結した本富士署から、無届け集会禁止で解散を命じられた。組合員の集会だという弁明は参加者を一目すれば崩れる。日頃大学当局は学生デモに対し学内に警察権力を入れないと、大学の自主規制で処理している状況を考慮すると、ここで警察の立ち入りを招くことは影響が悪いと判断して、残念ながら委員長の独断で解散し、参加した朝鮮人に軟弱だと非難された。翌日は本富士署に任意出頭で高橋と二人敗戦記念日の暑い西日の中尋問され、前途ある東大の助手が労働者や朝鮮人と共闘するとはと戦線分裂をはかったり、突然机を叩いて怒鳴ったり、硬軟使い分けでさんざん脅かされたが弱音は吹かなかった。その夜は大田区の工場で非合法の平和決起集会に参加などした。東職は東京都大学高専教職組連合(略称ダコセ)に加入していたので、その線で総評の平和闘争に参加し、8月末には浅草の仁王門の真ん前の歩道で、すぐ後ろに交番をひかえながら、平垣日教組中執とともに生まれて初めての街頭演説をやり、幼少期の上海の状況を述べて講和後も続く日本の主権喪失を訴えた。

 9月初旬には総評の平和推進国民会議主催の朝鮮戦争後初めての大規模の平和集会とデモに参加して感激した。場所は意外な靖国神社境内、デモも両国震災記念堂だった。インドのネルー首相から友好の象が贈られ、宗教者平和運動協議会の日蓮宗妙法寺僧侶が団扇太鼓で参加したり、1年半に及ぶ占領軍の戒厳令的治安に抗した民衆の平和的感情が爆発した。全面講和、再軍備反対、中立維持、軍事基地反対の平和四原則は参加者の大きな願望であった。このデモで私たちダコセグループが先頭に立って組合旗をかかげて行進する姿が『人民日報』に掲載されたと聞いて快哉を叫ぶような子供じみた気分であった。すべて蟷螂の斧であった。

 嵐のような半年はまたたく間に過ぎ、11月には南原後任の総長選挙で、農学部が推した岡田教授を委員会でしりぞけて東職として矢内原を支持し(12月3日当選)最後の統一戦線の仕事を終わった。その後遠山茂樹(史料編纂所助教授格)が後任と決まり、私は破壊活動防止法案反対のための解説執筆や、小集会での報告、講和発効後のメーデー事件など緊張した日常を続けつつ、僅かな余裕を得て二度目の助手論文「戦後日本の警察と治安」を執筆した。

1950年 全学連は共産党の分裂の影響を受けて二戸左登志が属していた国際派は執行部から追い出される

 1950年は共産党分裂の年でもあった。この年の1月、コミンフォルムの野坂参三批判があり、これは徳田球ーへの批判であったのだが、共産党は徳田球ーら主流派「所感派」と宮本顕冶ら国際派とに分裂した。

 GHQの弾圧のもとで共産党分裂すると学生運動にそれが持ち込まれた。全学連や東大の共産党学生組織は国際派に属し、そのなかに二戸左登志はいた。国際派は、全国的な政治課題、とくに占領軍の政策に対抗して平和・独立・民主主義の課題を提起すれば学生は受け止めて行動に立ちあがると考えていた。その一つがレッドパージ反対運動であった。主流派「所感派」は、経済要求など身近な問題から始めて政治問題に進むべきで、レッドパージ反対でゼネストを呼びかけるのは跳ね上がりだとした。

 国際派に属する二戸左登志たちは、レーニンの『なにをなすべきか』を引き合いに出して、「経済主義」「日和見主義」だと主流派「所感派」を批判した。学生運動の分野では、国際派が優勢であった。1951年秋になるころに状況が変わる。中国とソビエトの共産党が主流派「所感派」を支援するようになった。とくに中国共産党が日本共産党主流派「所感派」を支援し取り込むようになった。

 主流派「所感派」はこの年に新綱領を策定する。中国革命をお手本にして、日本でも武力革命が不可避だとした。主流派「所感派」の極左的運動方針はのちに火炎瓶闘争や山村工作隊などにつながっていく。中国共産党と連携して主流派「所感派」は国際派に攻勢をかけを切り崩す。1952年初め、主流派「所感派」に属する学生自治会が全学連の多数を占めるようになった。武井昭夫や安東仁兵衛らを代表とするそれまでの全学連中央執行委員会と書記局員を、共産党からも全学連からも排除した。国際派に属して全学連の書記局で運動をしていた二戸左登志は同じようにこの時に排除された。

 この時期は後の新左翼がしたような内ゲバには至らなかったものの共産党の両派の対立は深刻を極めた。対立する両派の間で転向が起こる。それまで同じ考え方で行動していた者がある日突然、立場を変えてかつての仲間を人民の敵だと攻撃する。二戸左登志は暗たんたる思いであった。

 1949年に東京大学教養学部に入学と同時に自治会活動に全てを投入した二戸左登志は授業に出席していないこともあって二度落第する。本人はこのように述べるが上の同じ新制東京大学教養学部入学一期生の証言があるから、試験ボイコットのストライキを実施した自治会の副委員長だったから、停学処分を受けたことの結果を述べているかもしれない。旧制浦和高校と相まって落第続きである。教養学部に4年在学した。1952年に全学連の新しい執行部から追い出されたことにより否応なく授業に出席するようになる。1953年に文学部西洋史学科に進学。卒業論文は第1次大戦後のドイツのインフレーションとその終息(レンテンマルクの奇跡)を取り扱った。

 西洋史学科にはドイツ史の大家の林健太郎いた。二戸左登志は林健太郎が嫌いで、非常勤講師として東大に来ていた成践大学の村瀬興雄に指導を仰いだ。村瀬興雄の親身な指導に打たれて入学後初めて本気になって勉強した。そして研究者への道を志す決意を固めた。その道の選択を西洋史の大学院か、経済の大学院かで迷う。卒論のテーマに関係して学んでいた経済学を本格的に学ぶことに気持ち大きく傾く。それで東京大学経済学部大学院を受験して合格する。本人は運良くと注釈をつける。海軍兵学校は閉校によって5カ月で追い出され、旧制高等学校は学制改革の影響で留年による即時放校。東京大学教養学部では二年の留年と事故続きの学業。長い道のりを経て研究者への道は経済学と定まった。

共産党主流派「書簡派」と国際派の議論の現場 福島新吾がみたこと

 大嶋太郎は旧制東京大学法学部政治学科を卒業すると設立間もない東京大学社会科学研究所の助手として勤務した。ここには同じ経歴をもつ福島新吾がいた。1929年(昭和4年)3月31日生れの大嶋太朗に対して福島新吾は1921年(大正10年)5月2日生れであった。外交官志望ながら学徒動員で出征し幹部候補生のときに肺結核で除隊して、外務省で終戦処理の諸業務に従事した経験を持つ。


 福島新吾と大嶋太郎の二人は東京大学社会科学研究所にいて農村や漁村の実態調査の従事した。後にこの二人は二戸左登志や山田盛太郎らと同じ東京の私立大学の教授として教壇に立つ。福島新吾は法学部長、二戸左登志は経済学部長をしたことがある。大嶋太郎は病に倒れてこうした職務には就かなかった。

福島新吾の回想

 一般に進歩派の社研所員としては、占領後の日本はいかにあるべきか、日本革命はいかに進めるかの問題を考慮することが最大の急務だった。それにはまず戦前のコミンテルンテーゼがどんなものだったか、その現在はどう考えたらよいかという点から出発すべきだった。その為には戦前の経験者は進んで当時の状況を後輩に伝達してほしかった。

 獄中十八年を栄光とする党主流派「書簡派」のセクト主義はそのような教育を意図しなかった。彼らは戦後直後には国民的な人気の高かった山川均の人民戦線提唱に対応して、救国民主統一戦線を叫んで一見呼応するかの如く見せて人民戦線をぶちこわした。ドイツ共産党ピークの「人民統一戦線」を破壊した自己批判も全く顧みられなかった。非転向だけを振りかざし、セクト主義の反省を全くせず、戦前の反共派の労農派や社大党の屈伏だけを非難する偏狭さを捨てきれなかった。しかも社研で共産党を支持する人々もそれが革新の主流だからと独善の過ちを看過、許容していたのであった。戦後の共産党は占領下の弾圧とソ連幹部の批判の板挟みになり、テーゼのどの部分が占領民主化によって実現されたか、どの点が不十分なのかという基本問題の討議にふれようとしなかった。

 志賀義雄や神山茂夫らは公式主義ながら若干の発言を行っていたが、中央では秘密裡にそれにからんだ派閥対立を起し除名や脱党が続いていた。その中で1950年1月のコミンフォルムによる野坂批判(実質は徳田批判)がおきた。徳田はそれに一度は反発したが一週間で全面降伏した。その間に私は招かれて代々木の共産党本部二階のM.L研究所の会議に出席、眼と鼻の先で徳田球一書記長がまさに真っ赤になって、日本の事情を知りもしない幹部達が勝手に口を出す、二七年テーゼの時と同じだとコミンフォルムの批判に反撃したのを見た。

 当時徳田は日和見主義と批判され、占領軍にはほとんど無抵抗で専ら吉田内閣への議会主義的な非難攻撃のみ(それを串刺し論と称していた)を展開していた。私は二・一スト中止の大打撃以後の米占領軍の公然たる反共主義の下では、日本の革命は出来るはずが無いと半ばあきらめ、わずかな改良闘争を支持していた。今日から見れば、コミンフォルム批判は朝鮮戦争開始に先立つ第二戦線結成の要求にほかならなかった。だから徳田の抵抗は全く意味が無かったわけではない。宮本顕治の国際主義の方が誤っていたであろう。その自己批判は無いのだろうか。

東京大学経済学大学院では山田盛太郎に師事

 1955年に大学院に入学すると教養学部に同じ年に入学して学生運動でも一緒だった南克巳と金子ハルオがいた。南は二年前に大学院に進学して山田盛太郎ゼミに所属していた。南は恐慌論をテーマとした修士論文で資本主義が崩壊しない前提で経済法則を分析する手法をとっている宇野理論の宇野弘蔵を批判をした。このために宇野憎まれ、博士課程進学を阻まれて浪人中であった。金子ハルオは大学院では二戸左登志の一年先輩、横山正彦ゼミにいた。二戸左登志は、南克巳の強い勧めで山田ゼミに入った。山田ゼミには、特別研究生の小林賢斉、博士課程一年の海道勝稔、同級の高島光郎がいた。

 山田盛太郎は、二戸左登志が文学部出身で経済学の基礎的素養が足りないことを考慮して、学説史を勉強しなさい、アダム・スミスとリカードの蓄積論をやりなさいと指導する。二戸左登志をこれを修士論文のテーマにした。山田ゼミの先輩のリカードの専門家の吉沢芳樹に教えを乞い草稿を書く。しかし山田盛太郎は、はなかなかこれでよろしいとは言わない。二戸左登志は次のように振り返る。当時の私の理解力はまだ幼稚だったと思うが、山田先生の助言も初心者に噛んで含めるようにというものではなく、その言われるところを把握するのに苦労した。

 何とか修士論文を仕上げて、博土課程に進学した二戸左登志であった。

 二戸左登志はその後、法政大学経営学部助手を経て1964年に広島大学教養部に専任講師として赴任する。広島大学は居心地が良いところであったが、山田盛太郎に研究の便利さのために東京に移るように諭される。ある私立大学の助教授の席が空いたことを幸いに東京に移る。この私立大学には1957年に東大定年したて山田盛太郎が勤めることになった。同じ私立大学の経済学部に二戸左登志と山田盛太郎が在籍することになった。

軍人への道を絶たれて新制東京大学第一期生となった二戸左登志と大野明男

 二戸左登志は新制東京大学第一期生。同じ第一期生に大野明男がいる。ともに旧制浦和高等学校に入学している。二戸左登志が浦和高等学校を留年すると次に入学してくる生徒がいないので放校扱いになる。仕方なしに新制東京大学を受験して教養学部文科二類に入学する。事情は定かではないが大野明男も新制東京大学第一期生。大野明男は東京大学教養学部に結成された学生自治会の委員長になる。二戸左登志は副委員長。二戸左登志が浦和高等学校に入学してマルクス主義の熱烈な支持者に誘われて傾倒していく。その勧誘者は大野明男であったろう。それで駒場の養学部に結成された学生自治会の委員長と副委員長になる。

 反イールズを掲げた戦いで教養学部の一般教養試験をボイコットするストライキを決行したことで大野明男は退学処分を受ける。大野明男は大学に再入学することなく東大生協に勤務し、さらに専門紙記者を経て思想分野の文化活動に関わって生きている。二戸左登志は副委員長であるから停学処分を免れることはできない。二戸左登志が残す手記には空白の二年間がある。また大野明男のことはあえて明かさない。その後の活動ほかで道が隔たったからだろう。

 大野明男は1930年(昭和5年)9月12日、東京生まれ。旧制東京都立第三中学校(両国高校を経て現在は東京都立両国高等学校・附属中学校)から東京陸軍幼年学校に進む。終戦で同校が閉校。その後旧制群馬県立桐生中学校から旧制浦和高等学校に進む。

 二戸左登志は1929年12月10日生れ。旧制会津中学校三年修了で海軍兵学校に入校。5カ月在籍したところで廃線によって閉校。旧制会津中学校に復学して旧制浦和高等学校に進む。

 その後、二戸左登志と大野明男はともに新制東京大学第一期生となる。

 陸軍幼年学校は旧東京第一高等学校に入学するよりも難しかった。学科試験と身体能力ほかも問われたからである。海軍兵学校も同じ。ただし陸軍士官学校も海軍兵学校も主戦直前は1,000名を超える入校者(採用者)があり、予科練などの同じように特攻要因として構想されており、軍部は破れかぶれの良い加減な将校学校を編成していた。

学者も官僚も企業経営者も高級将校も同じ学科試験を通過させる日本の学校教育

 大野明男の東京陸軍幼年学校、二戸左登志の海軍兵学校(これは終戦間際に実施された海軍兵学校予科(予科生徒))であったようだ。同年代の入校生に今井敬、早坂暁、小沢昭一、栄久庵憲司、小畠郁生、加藤武、木田元、木谷順行、佐野洋、田中稔、佃公彦、友部達夫、成田豊、深代惇郎、吉田庄司、古田幸男、福島重雄らがいる。

 東京陸軍幼年学校や海軍兵学校に入学した生徒は学科試験の能力は旧制高等学校合格の水準にあった。陸軍士官学校と海軍兵学校が敗戦で閉校となった後で在学中の者には旧制高等学校への編入などが認められていた。卒業者には旧制の東京大学など帝国大学への編入あるいは編入試験が認められて、これが実施された。

 陸軍士官学校と海軍兵学校、そして旧制の高等学校の学力判定は同じ基準で実施されていたから、学制が改められて新制東京大学が設置されても二戸左登志と大野明男には、この試験に合格することができた。

 高級将校への道も、学者への道も、官僚への道も、企業経営者への道も、同じ内容の学科試験を通過しているのが日本の学校教育である。苦節ともいえた二戸左登志と大野明男の二人の経歴がこのことを物語る。

[資料]
1950年前後の学生運動――北大・東大・早大 イールズ闘争とレッド・パージ反対闘争――1950年前後の学生運動,回顧と分析 岡田裕之
https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/651-03.pdf

海軍兵学校 (日本) - Wikipedia
受験年齢は16歳から19歳の年齢制限があり、身体条件を満たす者、中学校第四学年修了程度の学力、独身者。身体検査、運動機能検査で学術試験受験者が決定され、学術試験は5日間連続で行われた。学術試験は数学に始まり、英語(和訳)と歴史、物理、化学と国語(漢文も含む)、英語(英作文、文法)と地理の順に行われ、それぞれの学術試験の採点結果は当日に発表され、所定の合格点数に達した者のみが次の学術試験を受験。面接試験を経て最終合格者が決定された。志願者の増加と共に内申書による事前選考が行われるようになった。日本海軍の人事政策では兵学校出身者は特別の事情がない限り、大佐まで昇進させた。

レッドパージ反対闘争のこと - 駒場祭情報館 レッドパージ反対闘争のこと 大野明男(第一期生)2019年11月25日 投稿者:wilastone
学生投票は「約1800対1000」の差で、「試験ボイコット・スト決行」を可決。ストの2日前、正門前のピケット・ラインに警官隊が突っ込んで揉み合いになり、破られたが、ある学生が「ボクは警官隊がつくった道を通って受験しようとは思わない」と叫んだため、スト反対派の学生も動かず、矢内原学部長が南原総長に電話で報告のうえ、「試験中止」を発表する。そして天野文部大臣は「レッドパージの中止」を発表。
私たちは、1つの「勝利」を得た。その代償として13名の「退学・停学処分」があり、私自身は「復学」することもなかったが、この「10月闘争」のことを1度も後悔したことはない。多くの学友も、ストに賛成した者も、反対した者も、「退学・停学」で「復学」まで遠回りを余儀なくされた者も、ほとんど全員が「後悔」などしなかったはず、と断言できる。

大野明男 - Wikipedia
大野 明男(おおの あきお、1930年〈昭和5年〉9月12日 - )。
東京生まれ。旧制東京都立第三中学校、東京陸軍幼年学校、旧制群馬県立桐生中学校、旧制浦和高等学校を経て、東京大学に入学。東京大学教養学部の学生自治会委員長としてレッドパージ反対闘争を指揮し、退学処分を受ける。東大を中退後、東大生協、専門紙記者を経てフリーになる。自らの全学連(全日本学生自治会総連合)の経験を踏まえた学生運動や世代論に関する発言を中心に新中間層、経済、経営の分野に及ぶ幅ひろい評論活動を展開する。

福島新吾―体験戦後史 1945~47―旧制一高、東大法学部、学徒出陣、東大社会科学研究所助手時代ほか-
福島新吾―社会科学としての政治研究―1947~54―東京大学社会科学研究所助手時代と共産党本部の徳田球一書記長


2026-03-13-t-youth-i-witnessed-part-1-the-case-of-satoshi-ninohe-

[資料]







見ていた青春-その1-東大教養学部自治会副委員長の二戸左登志の場合 夏森龍之介

エッセー「見ていた青春」(夏森龍之介)を書き進める決断した日-2026年3月12日(木)-森夏之

真似ごとをしない 私にだけできることをして生きる-2026年3月11日(水)の日記- 森夏之

明治初年 日本の山には木が生えていなかった、軽井沢は浅間噴火ではげ山だった

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