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計量計測データバンク ニュースの窓-376-
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計量計測データバンク ニュースの窓-376-
ソローの「森の生活」と八ヶ岳 海の口自然郷


計量計測データバンク ニュースの窓 目次

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計量計測データバンク ニュースの窓-376-ソローの「森の生活」と八ヶ岳 海の口自然郷

夢の暮らしの山荘を受け継ぐ人のこと-2026年03月07日(土)の日記-森夏之
ソローの「森の生活」と八ヶ岳 海の口自然郷

森の生活―ウォールデン― ソーロー著(神吉三郎訳)とその解説 森夏之

写真と絵で創造するソローのウォールデン・森の生活 森夏之

新緑がステンドグラスになる山荘で暮らす-2026年03月05日(木)の記録-森夏之




キャビン建設-2026年03月05日(木)の行動記録- 森夏之

計量計測データバンク ニュースの窓-377-明治初年 日本の山には木が生えていなかった、軽井沢は浅間噴火ではげ山だった

ソローの「森の生活」と八ヶ岳 海の口自然郷

森の生活―ウォールデン― ソーロー著(神吉三郎訳)とその解説 森夏之

写真と絵で創造するソローのウォールデン・森の生活 森夏之



開発当初の「八ヶ岳高原海の口自然郷」ははげ山に近い姿だった。1960年代前半、ここは過放牧によって、治水力さえ失った牧場跡の荒れ地でした。私たちは、そこに33万本を超えるカラマツを植えることから、自然郷の開発をスタートさせました。昭和35年ごろの撮影


開発当初の海の口自然郷のカラー写真。1960年代前半、ここは過放牧によって、治水力さえ失った牧場跡の荒れ地でした。私たちは、そこに33万本を超えるカラマツを植えることから、自然郷の開発をスタートさせました。。


現在の海の口自然郷の全景(1960年代前半、ここは過放牧によって、治水力さえ失った牧場跡の荒れ地でした。私たちは、そこに33万本を超えるカラマツを植えることから、自然郷の開発をスタートさせました。)


ふんだんに池や野外劇場が計画されていた当初の設計図


目白にあった旧徳川邸を移築したヒュッテ


長くまっすぐな落葉松並木のエントランス。1960年代前半、ここは過放牧によって、治水力さえ失った牧場跡の荒れ地でした。私たちは、そこに33万本を超えるカラマツを植えることから、自然郷の開発をスタートさせました。。

八ヶ岳高原海の口自然郷のHISTORY

八ヶ岳と緑の森。この景色を育んだのは、人と自然です。ここを訪れた時、私たちを包んでくれる森のやさしい姿。それはあたかも太古よりここにあったかのように思うかもしれません。しかしほんの50年前、ここは木もまばらに荒地か広がる場所でした。

1963
「八ヶ岳高原海の口自然郷」の始まり
1963年、長野県南牧村海の口財産区より、当時放牧地であった「海の口牧場」700ha(200万坪)を譲り受けました。開発は過放牧によって治水能力さえ失った牧場跡の荒地に木を植え、森を再生する事から始まりました。風土に適し、春夏の新緑、秋の黄葉が鮮やかなカラマツを植樹。その本数は33万本以上におよび、現在この地を訪れる人々を魅了するアプローチのカラマツ並木もこの時形成されたものです。別荘地の道路は当初単調なものでしたが、次第に等高線に沿って自然なカーブができるようにし、舗装も一見砂利道のようにも見える「砂利風舗装」を採用。側溝には地元の佐久石を使い、落ちた小鳥や昆虫が這い上がるための「助かり枡」を設置するなど、現在の自然郷の姿を形づくってきました。

1965
第1次別荘地分譲スタート
開発途上にある自然への影響を考慮して、1区画1,000坪単位での分譲を開始。その後、1967〜70年頃は500坪単位で販売しました。現在は平均400坪程度で販売しています(条例により1区画1,000m²(300坪)以下での分譲はできません)。

1969
「八ヶ岳高原ヒュッテ」開業
東京・目白にあった元公爵徳川義親氏(尾張徳川家19代当主)の邸宅を譲り受け、移築。翌年ホテルとして営業を開始しました。以来、自然郷のシンボルとして親しまれ、テレビドラマ「高原へいらっしゃい(山田太一原作)」の舞台としても利用されました。イギリス中世のチューダー様式の建物は、1934年(昭和9年)に建てられました。設計は東京国立博物館、日比谷第一生命館や銀座和光などを手がけた渡辺仁氏です。

1972
建売別荘分譲開始
1972年からは土地に加え、別荘の企画販売を開始。1980年からは私たちが企画し販売する別荘すべてを、マツモトゲンさんにイラストをお願いしてご紹介しました。

1974
ミニコミ誌「標高1500m」発行
自然郷のスタッフと別荘オーナーの執筆によるガリ版タッチの新聞。現在も年3〜4回発行しています。

1975
リゾートホテル「八ヶ岳高原ロッジ」開業
コブシやシラカンバの木立に抱かれるようにたたずむ「八ヶ岳高原ロッジ」は、1975年に15室で開業しました。その後2回の増築を経て現在は2つのレストラン、7タイプ68室のゲストルーム、暖炉のあるバー、テニスコートや陶芸工房も備え、別荘オーナーのコミュニティの場としても親しまれています。

1975
第1回サロンコンサート開催
「大自然の中で生の演奏を」という声を受け、第1回目のサロンコンサートが、八ヶ岳高原ヒュッテで開催されました。以降、八ヶ岳高原ロッジ、八ヶ岳高原音楽堂と会場を移しながら、現在まで自然郷では国内トップアーティストをはじめ、リヒテル、アシュケナージなど海外の音楽家も招聘しています。

1976
テレビドラマ「高原へいらっしゃい」放送
田宮二郎・由美かおる主演。自然郷のシンボル「八ヶ岳高原ヒュッテ」が舞台として利用されました。

1984
「鳥たちの森」設定(日本鳥類保護連盟)
1985
「陶芸工房」開業

1987
集合別荘「ソアレ」シリーズ分譲開始
自然郷の南へりを流れる杣添川の谷に沿って、連なるように建つ集合別荘「ソアレ杣添」。
1フロア2世帯、3〜4階建のマンション型の別荘です。バーベキューもできるゆったりとしたバルコニー、四季の景色を楽しみながら入浴できる南向きのバスルームに加え、マンション型ならではの管理の容易さが特長です。その後、1992から「ソアレ南原」、1996年から「ソアレ瑠璃沢」を販売。現在、23棟、194戸の集合別荘があります。

1988
「八ヶ岳高原音楽堂」竣工
はじまりは音楽好きな別荘オーナー同士が開いていたレコード鑑賞会でした。それが八ヶ岳高原ロッジのロビーで開かれる「八ヶ岳高原サロンコンサート」へと育ち、「いっそ本格的なコンサートホールを作ろう」という機運の高まりを受けて誕生したのが「八ヶ岳高原音楽堂」です。20世紀最高のピアニストスヴャトスラフ・リヒテル氏と日本を代表する作曲家・武満徹氏をアドバイザーとしてむかえ、木の響きを活かした音楽ホールは、吉村順三氏の設計により完成しました。特徴的な2つの三角屋根は、頂が並ぶ「男山・天狗山」と自然郷から見える八ヶ岳「赤岳・横岳」の形状をオマージュしてデザインされました。席数わずか250のホールでは、カラマツの無垢板の反響が繊細で表情豊かな「本当の生の音」の魅力を教えてくれます。

2003
テレビドラマ「高原へいらっしゃい」リバイバル放送
佐藤浩市・井川遥主演。

2013
開郷50周年

2018
八ヶ岳高原音楽堂30周年「八ヶ岳カラマツチェンバロ」をお披露目
国内屈指のチェンバロ製作家、久保田チェンバロ工房の力を借りて、自然郷のある南牧村の隣、川上村の樹齢110年のカラマツを使用して製作されました。

2019
「みどりの社会貢献賞 特別賞」受賞(公益財団法人都市緑化機構)
地域貢献や生物多様性保全等の環境活動での顕著な功績が認められました。

2020
八ヶ岳高原ヒュッテ(旧尾張徳川家本邸主屋)
国の登録有形文化財に決定
八ヶ岳高原ヒュッテが、移築50周年の2019年7月リニューアル
重厚な外観はそのままに約10か月をかけて基礎部分から耐震補強、内装のリフレッシュ、最新設備の導入をいたしました。結婚式場として、また各種イベントなどの多目的スペースとしての機能も備え、この建物を次世代に受け継いでまいります。

「八ヶ岳カラマツチェンバロ・プロジェクト」
第6回ウッドデザイン賞2020 優秀賞(林野庁長官賞)受賞
「八ヶ岳高原音楽堂」の開館30周年(2018年)に、地場の樹齢110年のカラマツ材で「チェンバロ」を製作し、「自然と人と文化の共生」を伝える演奏会を継続開催している事が認められました。


http://home.r07.itscom.net/miyazaki/zakki/50years.html


建築士をしている弟から、机の整理をしていたらこんなものが出てきた、と「西武八ケ岳高原海の口地区開発構想」という冊子が送られてきました。そう、我が山墅がある 現在の「八ヶ岳高原 海の口自然郷」の半世紀以上前の基本計画書です。

昭和47年(1960)12月に西武グループの西武都市開発㈱が作ったものです。私がここに入ったのは昭和62年(1987)ですが、その前年に商号変更して㈱西洋環境開発となった会社です。いまでも地元の人に「ああ、西武の別荘地ですね」と言われることが多いですが、当初はアタマに「西武」の名が大きく冠されていたことによるものです。この基本計画書が作られたのは昭和47年ですが、このあたり一帯の開発計画はずっと以前の昭和30年代にスタートしています。現在の姿と比べると、はるか昔々の話になります。

横岳の尾根沿いにあたるこのあたり一帯は国有林でした。それが西武に払い下げられた時期と規模、金額はいま手元に資料がないのではっきりしませんが、戦後の混乱期だと思われます。国有林を民間会社に払い下げるなど、今なら自然保護の観点からも考えられないことですが、戦後のわが国の林野行政は愚行の連続と言われるように、緑を守るどころか破壊の方向に向かっていました。独立採算の名の下に職員の給料を払うために国有林を伐採したり、切り倒した樹木を運び出すために観光の名を借りてスーパー林道を通したりすることが、最近までまかり通っていました。

このあたりを管轄するのは臼田営林署ですが、私は以前3代にわたる署長と親交を結びました。そのうちの一人は平成24年現在、明治神宮の森を監督する総責任者を務めていますがいまだに行き来しているほどです。森のことにまったく無知だったのでこうした専門家と付き合う必要があったのですが、おかげで我が敷地の植栽の多くは営林署員の手で植えられたので元気に育っていますが、逆に 戦後の林野行政の無茶を知ることにもなりました。

例えば直径1.5メートルはくだらないカエデの巨木を輪切りにしたテーブルと椅子を買わないかと言われたことがありますが、こんな巨木いまではどこを探してもないでしょう。数百年の年輪を刻んだ原生木を切り倒して いたことがわかります。

話を自然郷の由来に戻します。西武鉄道は箱根土地社長にすぎなかった堤康次郎氏が1932年(昭和7年)に経営危機に陥っていた武蔵野鉄道の株式を買い集め、再建に乗り出すところから始まった会社です。川越鉄道、武蔵野鉄道、西武農業鉄道といったローカル鉄道をつぎつぎに取り込んで大きくして戦後は国会議員として衆議院議長までつとめました。この間、政界とのつながりがあったのかもしれませんが、八ヶ岳の土地は西武に払い下げられます。何百万坪という広さですが、このほか同時に、ほぼ同規模といわれる稲子湯あたりの国有地も払い下げを受けました。

払い下げを受けた横岳東麓一帯の開発を行ったのが、西武都市開発(その後西洋環境開発)です。現在は特別清算された会社なので、すこし開発の歴史に触れる必要があります。

※特別清算とは
会社が合併・破産以外の事由で解散した場合に、会社の全部の法律関係を整理決済し、その財産を株主に分配する清算手続が行われる。通常清算と特別清算 とがあり、債務超過の疑いがある場合など、裁判所の命令により開始され、その監督の下で行われる清算を「特別清算」という。破産ほど厳格な手続では なく、関係者の自治に委ね、破産に比べ弾力的に資産処分ができるので「ミニ破産」とも呼ばれる。大企業の子会社が会社を清算するときに使うことが多い。

西洋環境開発の歴史

1960年12月 西武都市開発㈱が「西武八ヶ岳高原海の口自然郷」基本計画書発表。

1964年 4月26日   堤康次郎氏、心筋梗塞にて急死(76歳)
9月1日   東京プリンスホテル開業(510室、開業直前に西武百貨店から西武鉄道に移管される)
父の遺言で兄はホテル経営には手を出さないことになっていたという取り決めに違反したためという。
1966年      清二氏西武百貨店社長に就任
1968年10月30日   八ヶ岳高原ロッジ新築完成
1969年      八ヶ岳高原ヒュッテ開業
1970年 6月    西武化学(八ヶ岳の土地保有) が鉄道グループから流通グループへ移管
1972年 1月1日   西武化学から分離した西部都市開発㈱ができる。
八ヶ岳高原キャンプサイトオープン。西武都市開発、豪華ヨット「シナーラ号」をチャーター
1983年      セゾンカード発行
1985年      西武流通グループから西武セゾングループに。
1986年 1月     西武都市開発㈱が㈱西洋環境開発に商号変更。
1987年 3月2日   ホテル西洋銀座開業。日本初の本格的スモールラグジュアリーホテル。この年百貨店グループ売上高、業界首位に。
1988年12月15日   西武セゾングループがインターコンチネンタルホテルズ社を2800億円で買収。
1933年      西武百貨店が初の赤字に。
1995年 2月     西洋環境開発、広島県の第三セクター2事業からの撤退決定。
    3月     西洋環境開発が5つのゴルフ場をゴルフ西洋に譲渡
   4月    西洋環境開発、西武百貨店などグループ各社に150億円の第三者割当増資
   10月     第一勧業銀行など8行が返済繰り延べに応じる金融支援を西洋環境開発に実施
1996年11月     西洋環境開発、八ヶ岳高原音楽堂を西武百貨店に売却
1998年 2月4日   セゾングループがインターコンチネンタルホテルを英バス社へ売却(3700億円)
1999年      清二氏すべてのグループ代表から退任。
2000年 7月18日   西洋環境開発㈱が特別清算申請(負債5538億円)
西洋環境の巨額の負債がセゾングループの解体に至る原因とされるが、実態は母体の西武百貨店の代わりに行なったリゾートや美術関連事業の借入金が膨大になったことが致命傷とされる。その後西武百貨店は「そごう」と経営を統合し「ミレニアムグループ」となり、 さらに「セブンイレブン」を経営する「セブン&アイグループ」の傘下へ吸収されていく。
2003年      西武百貨店、私的整理で減資。ミレニアムリテイリング傘下に。
2006年6月     セブン&アイ・ホールディングスがミレニアムリテイリングを買収したことで完全子会社
(百貨店事業の中間持株会社化)され、西武百貨店とそごうはセブン&アイグループの一員となる。

2009年8月1日   株式会社「そごう・西武」設立(そごうが西武百貨店とミレニアムリテイリングを吸収する3社合併)。
株式会社「そごう・西武」の株主は株式会社「セブン&アイ・ホールディングス」。そごうとの提携
開始から9年目で一社化となった。

現在    「八ケ岳高原 海の口自然郷」の資産の所有会社は株式会社「そごう・西武」で、その下で
(株)「八ヶ岳高原ロッジ」が資産の運営管理を委託されているというかたちになっている。

【 現在の「海の口自然郷」の事業主体 】
2025年現在の「海の口自然郷」の事業主体は㈱そごう西武。その㈱そごう西武が、「海の口自然郷」の運営を㈱八ケ岳高原ロッジに委託しているという形。以前、㈱そごう西武の親会社は㈱セブン&アイ・ホールディングだったが、同社は2023年に株式を売却、現在の親会社はフォートレスインベストメント社である。

㈱八ケ岳高原ロッジのホテル事業は2025年4月30日付でフォートレスインベストメント社における日本のホテル関連事業を統括しているマイステイズ・ホテル・マネジメント(2025年7月1日付でアイコニア・ホスピタリティに社名変更)に移管された。現在、同社が八ヶ岳高原ロッジ、ヒュッテ、音楽堂の運営を担っている。

2024年秋に㈱八ケ岳高原ロッジ社長として茂木光晴氏が着任したが、上記の移管にともないアイコニア・ホスピタリティから山本俊祐社長が発令され、茂木氏は「副社長」となっている。社長は池袋のサンシャインシティービルの本社在駐、副社長は八ケ岳在駐。

一方別荘事業は従来通り㈱八ケ岳高原ロッジの経営となっている。現在、自然郷の二分の一は売却済みで残り半分が㈱そごう・西武の所有。自然郷内の道路60キロは㈱そごう・西武の所有。

すでに「八ヶ岳高原海の口自然郷」に山荘を構えている人なら思いは同じでしょうが、西洋環境開発がここだけの経営に専念していれば何の不都合も なかったことが上の年表からも読み取れます。バブル期に手を広げすぎ、土地を買い集めすぎ、金を借りすぎたことが破綻の原因で、この土地のリゾート開発の 構想そのものは多くの人の共感を得ていた事業だったのです。

セゾングループ、西武鉄道グループ、ともに一代で王国を築き、ほぼ同時に崩壊していった二つのグループは、背景となった兄弟の確執の歴史もまた ドラマチックなものがあります。「八ヶ岳高原海の口自然郷」はその確執と密接な関係があります。

セゾングループと西武鉄道グループの栄枯盛衰
昔は川越鉄道、武蔵野鉄道、西武農業鉄道と言ったローカル鉄道を一代で日本有数の私鉄、西武鉄道に育て上げたオーナーであり、政界では衆議院議長までつとめた堤康次郎氏が亡くなったのは昭和39年(1964)4月26日だった。恒例に従い二日後には衆議院本会議場で追悼演説が行われ、遺族が参列した。本会議場には未亡人はじめ清二、義明の義兄弟が最前列にモーニング姿で並んだが蜜月はここまでだった。

ドン康次郎は艶福家で多くの「第二夫人」がいた。「康次郎の女性関係は派手だった。下はお手伝いさんから上は華族まで“女”と名のつくものであれば“手当たり次第”だった。お手伝いさんから女子社員、部下の妻、看護婦、マッサージ師、乗っ取った会社の社長夫人、秘書、別荘管理人、旧華族…社員たちの言葉の端にのぼっただけでもざっとこんな具合である。このあと始末は部下の仕事だった。愛人の数は有名な女優を含めて、正確な数は誰もわからないし、本人もわからなくなっていた」。

評論家の大宅壮一は、堤に「近江の知能犯」というレッテルを貼り、噂と断ったうえでこんな話を紹介している。「関東大震災の直後、一家全滅したようなところの焼跡に、かたっぱしから「堤康次郎所有地」と書いた棒杭(ぼうぐい)を立てた。どこからも文句がでなければそのまま、出れば法廷でお抱えの弁護士をつかって、所有権を証明する物的証拠を示せ、と争ったという。(ウイキペディア)

3番目の正妻である操夫人の長子、清二氏と愛人として別邸を与えられていた石塚恒子の子、義明氏は早くから後継者争いを取沙汰されていたが、指名されたのは世間の思惑に反し、清二氏より7歳年下の義明氏だった。このことがのちのち兄弟の確執につながる。

亡父の遺志とはいえ、長兄なのに当時弱小だった池袋の小さな百貨店に過ぎなかった西武百貨店を与えられた清二氏は発奮する。20年余りのちには西武百貨店、西友、パルコなど約 200社、年商5兆円というセゾングループを築き上げる。一方、本業の西武鉄道など本体部分を引き継いだ異母弟の三男、堤義明氏も後述のように鉄道部門のほか100を超えるプリンjすホテルグループを擁するコクドグループを築き上げた。

兄弟が疎遠になったことを清二氏は2013年1月の朝日新聞のインタビュー記事でこう語っている。
「おやじが死んで、最初のころは月1回ぐらい、昼飯を異母弟と一緒にすることにしていたんですが、話が合わない。昼飯がおいしくも、愉快でもない。こちらも、あっちも会食 に積極的でない。以来、没交渉のような状態です」。

また同じ「西武」なのにカードが互いに使えないことについても、
「1985年以降、グループの名から少しずつ『西武』を外したのは『鉄道離れ』を意識したわけではなく、例えば、クレジットカードが『西武』だと、他の百貨店が入れないことからです。西武鉄道系のプリンスホテルでは、うちのカードは使えなかった。あそこのトップ(義明氏)は変わった人でしてね。『俺のところは、月賦で払うようなお客は、お客じゃない』 と言うわけです。カードによる支払いは月賦じゃないのにね」といった具合で、絶縁は今も続いている。

堤義明氏は、西武鉄道のみならず、土地所有会社にすぎなかった「コクド」を足がかりに、日本中で100を超えるプリンスホテルを建て、あわせてゴルフ場、スキー場を経営する一大レジャー産業に育て上げた。一方、堤清二氏の方も西武百貨店にとどまらずパルコ、西友、クレディセゾンなど小売流通部門に手広く事業を展開、一時は世界一流のホテルグループ、コンチネンタルホテルを買収、ホテル西洋を経営し、ヨットハーバーまで運営するセゾングループ(旧・西武流通グループ)を作り上げた。辻井喬のペンネームで小説家、詩人としても高名で日本芸術院会員でもある。

堤清二氏
セゾングループの中にあって小売業を脱して生活総合産業を標榜した堤清二氏の理想を具体化する企業が西洋環境開発(旧:西武都市開発)だった。さらに言えば、この会社のみならずグループの理想をかたちにした核になる事業が現在の「八ヶ岳高原海の口自然郷」だった。
当初は「西武海の口自然郷」という名称だったが、日本に多いチマチマした小区画の別荘団地にしてはならないというコンセプトで一族の女性たちが積極的 にアイデアを出したという。ヨーロッパ型のリゾート地を目指して事業は順調に進んだ。堤清二氏本人はじめ妹、堤邦子さん(パリに客死)など一族の別荘
が自然郷の中心部にあった(現在は処分されているようだ)。彼女は日本で結婚・離婚、フランスに渡り30余年間をパリで生活、この間カジノ船「ソシ エテ・リディア」を開業(フランス)したが4年で倒産、セゾングループが後始末をしたと言われる。

清二氏の母、操は倒産した東京土地の社長青山芳三の娘だった。堤康次郎は零落した青山家の姉妹四人がみな美人だったので、すべて“愛人化”しようとした。長女は”無事”だったが次女、三女・操、四女(16歳だった)と3人に手を付けた。三女の子が清二、四女の子が邦子だった。そういうこともあって清二氏はとかく”不行跡”が続いた堤邦子を経済的にも社会的にも支えつづけた。

当初「八ヶ岳高原海の口自然郷」の経営はよかった。だが、ほかでつまづいた。西洋環境開発は、バブル期に滋賀、宮城、群馬県などで積極的に大規模リゾート開発を手がけたのだが、バブル崩壊で行き詰まり、経営が破綻する。1999年3月期には有利子負債5500億円、債務超過3700億円を抱えるまでになった。堤清二氏は「西洋環境開発の処理ではセゾングループが最低1401億円を負担する」という確認書を銀行団に提出した。

グループのオーナーが決めたことだが、西武百貨店の社長や役員が反旗を翻す。グループとはいえ、西武百貨店が西洋環境開発の債務保証をしているわけでもないのに支援金を出すのは株主代表訴訟につながる、というもっともな理由だった。西武百貨店は交渉の席につかなかったため11月末に資金ショート寸前まで追い込まれた。

その後セゾングループは西洋環境開発の特別清算について、第一勧業銀行など銀行団と話し合いが進み、合意にこぎつける。西洋環境開発が所有する未造 成宅地などの保有資産を売却し、傘下のマンション管理会社、不動産仲介会社などを営業譲渡する。西洋環境開発に出資している西武百貨店、パルコ、西友、クレディセゾン、西洋フードシステムズの5社で1000億円程度の支援金を負担する。そのうちグループ中核の西武百貨店は未上場企業の株式売却、池袋店を証券化して売却することで数百億円の資金を調達するなどが骨子だった。このことは同時にセゾングループは堤清二氏と決別することを意味していた。

こうして2000年 7月18日、西洋環境開発㈱は特別清算を申請した。負債総額は5538億円だった。堤氏は1991年にすでに「引退宣言」をしていたが、その後も、セゾングループの実質的な代表の立場を保ってきた。しかし西洋環境開発の処理をきっかけに、名実共にグループの代表の立場から退いた。

この間の、銀行がつれなく西洋環境開発㈱を切り捨てる手口や私財100億円を出した経緯などを朝日新聞デジタルの「証言そのとき」というインタビュー記事(2013年 3月18日)で赤裸々に語っている。堤清二氏は経営者というより、やはりすぐれた文人「辻井喬」としての側面が色濃く出ている。これは有料配信記事なのと新聞社のサーバーにあるものなのでいずれ消されることから、テキストだけ別掲(「詩と芝居と経営と」9引退劇は失敗)した。サイトの亭主は人後に落ちない銀行嫌いだが、これを読んでリスクを取らずに冷酷に切る銀行商売がますます嫌いになった。

西洋環境開発㈱の消滅により同社が経営していた「八ヶ岳高原海の口自然郷」は、西武百貨店の管理下に移され、その後上の年表にあるように西武百貨店自体が持株会社の変遷や他の百貨店との合併を繰り返したことでめまぐるしく形態が変わったが、現在は株式会社「そごう・西武」の所有で、その下で関連会社の(株)「八ヶ岳高原ロッジ」が資産の運営管理を委託されているという形になっている。

堤清二氏死去
セゾングループを立ち上げ、1970年代以降の消費文化を育てるなど、経済人として活躍する一方、辻井喬(つじい・たかし)のペンネームで作家・詩人としても活躍した堤清二(つつみ・せいじ)さんが、11月25日午前2時5分、肝不全のため、都内の病院で死去した。86歳だった。親族で27日、密葬が営まれ、後日、お別れの会を開く。喪主は妻麻子さん。

西武グループ創業者で衆院議長も務めた故堤康次郎さんの次男として生まれ、議長秘書を経て、西武百貨店、西友ストアー(現西友)などの社長を務めた。堤義明・元西武鉄道会長は異母弟になる。

80年代から90年代初頭にかけて、西武百貨店、西友、パルコを中核とした流通グループを、生活総合産業を掲げ幅広い事業を手がけるセゾングループに育てた。進出した事業は、ホテル事業やマンション販売、リゾート開発、金融サービスなど多岐にわたった。しかし、金融機関からの借入金に頼った拡大路線がバブル崩壊で破綻(はたん)し、ホテル 事業、リゾート開発などから撤退。2000年には不動産会社の西洋環境開発を清算する際に、私財提供を余儀なくされた。グループ企業の経営から退き、セゾン文化財団理事長を務めた。

また、詩人・辻井喬として61年の「異邦人」で室生犀星詩人賞、92年の詩集「群青、わが黙示」で高見順賞のほか、00年には日本の敗戦や戦後と向き合った長編詩「わた つみ 三部作」で藤村記念歴程賞を受けた。

小説家としては69年、婚外子としての自身の複雑な出生などをつづった自伝的作品「彷徨の季節の中で」でデビュー。経済人で歌人だった川田順をモデルにした小説「虹の岬」 で谷崎潤一郎賞を受けた。03年から04年にかけて朝日新聞に新聞小説「終わりからの旅」を連載した。04年に「父の肖像」で野間文芸賞。07年に芸術院会員、12年に 文化功労者。朝日新聞文化財団理事を務めた。(2013年11月28日付朝日新聞)

堤清二氏にはもう一つの顔があった。大学時代に共産党入党、「横瀬郁夫」という筆名でかなり知られた存在だった。しかし路線対立で除名処分になった。同じ共産党を除名された 水野成夫(産経新聞社長)らを主人公とした『風の生涯(日本経済新聞に連載)という作品がある。三島由紀夫のスポンサーでもあり、三島が主宰した「楯の会」のメンバーに制服を提供したり、自決後の追悼会にポケットマネーから資金の一部を提供したほか、三島映画上映企画などでも損得を度外視して会場を提供したりしている。亡くなったのは、 三島由紀夫の命日、すなわち43年目の憂国忌の朝だった。

堤義明氏
[西武鉄道グループの歴史]
総帥、堤義明氏の生い立ちだが、堤康次郎と内縁関係にあった石塚恒子の間に生まれた(未入籍)。母は新潟県出身の歯科医師で衆議院議員をつとめた石塚三郎の娘。早稲田大学商学部時代に康次郎から「冬の軽井沢に人を呼ぶ方法を考えろ」と言われ、スケート場を開設、成功を収めたことから後継者と見込まれたようで、康次郎が亡くなった後、周囲では、「グループは次男の清二が継ぐ」と噂されていたが、三男の義明氏がグループ本体のコクド・西武鉄道グループを引き継いだ。オーナー就任後 10年ほどは康次郎の事業をそのまま引き継ぎ、おとなしくしていたがやがて折からのバブル景気とともに全国にプリンスホテルをつぎつぎ建てて隆盛に導いていった。

1973年 11月    西武鉄道社長。
1976年 7月     プリンスホテル社長(~1987年6月)。
1989年 1月     西武鉄道会長。

琵琶湖のほとりに「大津プリンスホテル」(2016年4月1日、びわ湖大津プリンスホテルに改称)が建っている。38階の高層ホテルで、高さは地上133m。滋賀県で最も高いビルであり、ランドマークとなっている。オープニングの時は招かれてサイトの亭主も泊まったことがことがあるが、見晴るかす一面の畑のまっただなかにそそり立っている。なぜこんなところに、と思うところだが、理由は堤義明氏の父、康次郎がここ大津の出身だからである。父のモニュメントの意味がある超高層ホテルなのだ。こればかりではない。滋賀県大津市御陵町にある大津市歴史博物館前には大きな堤康次郎銅像が建っている。軽井沢千ヶ滝にも像はあるがここのが一番大きい。
ところで「プリンスホテル」の名前の由来だが、戦後家計が逼迫した旧宮家や藩侯の屋敷を堤康次郎が買収し、下に羅列したように跡地にホテルを建てていったことに始まる。皇室御用達としては三越が長く君臨していたが、テレビの「皇室アルバム」放送で高島屋が食い込んだ。その一角に「西武」が入るための戦略という面もあり 、昭和天皇の皇女、島津貴子さんをプリンスホテル内のショッピングモール「ピサ」に社員として迎えたり、名誉職ながらプリンスホテル取締役にするなど皇室とのつなが をはかっている。

[プリンスホテルの場所の元の持ち主]
東京プリンスホテル・・・徳川家霊廟跡
品川プリンスホテル・・・毛利公爵邸跡
大磯プリンスホテル・・・吉田茂元首相邸跡隣
軽井沢プリンスホテル・・・元根津嘉一郎別荘
千ヶ滝プリンスホテル・・・朝香宮沓掛別邸跡
高輪プリンスホテル貴賓館・・・旧竹田宮邸跡
新高輪プリンスホテル・・・旧北白川宮邸跡
横浜プリンスホテル貴賓館・・・東伏見宮別邸跡
赤坂プリンスホテル旧館・・・李王家邸跡
といった具合である。

一方でスポーツ振興に力を入れ、福岡にあった球団、クラウンライターライオンズを買収し西武ライオンズのオーナーとなり(1978年)、球団はパシフィック・リーグの 王者となり、何度もリーグ優勝・日本一と好成績を残している。スキー、アイスホッケー、フィギュアスケートの強化に力を入れ、日本オリンピック委員会(JOC)の初代会長などを務める(~1990年5月)など貢献した。長野五輪招致では大きな役割を果たした。

1980年代後半のバブル景気真っ只中、米国の経済誌『フォーブス』に「世界一の大富豪」(The World's Billionaires)として取り上げられ、その保有総資産額は3兆円 と報じられたりした。神奈川県の自宅から原宿神宮前のコクド本社までヘリコプターで“通勤”する姿がテレビなどでもよく放映された。

「頭のいいやつは要らない。物事の判断はすべて私が行う」と言ったり、土地所有会社にすぎないコクドを舞台に多くのホテル経営やレジャー産業に手をひろげ、借入金を膨らませて帳面上は赤字経営にして税金をほとんど払わないという強引な手法も次第に批判を受けるようになった。筆者は親しくしていた西武ゴルフ社長や広報室長が一夜にして飛ばされて唖然とした覚えがある。

仕事柄、義明氏とは何度か食事をしたり、ゴルフをしたりした。忘れられないのは上毛高原プリンスホテル開場の時だ。招待された我々数人はバスでこのホテルに出向いたのだが、 義明氏は夕方ヘリで到着した。ホテルの支配人には「4、5年は赤字でもいいが、そのあとは黒字にせよ」と命じていた。まさに君臨していた。食事の時たまたま解禁時期が迫っていたボジョレーヌーボーの話になった。義明氏ボジョレーヌーボーの何たるかをご存じなかった。新しいブドウを強制発酵させたもので云々と記者が説明した。すると広報部長を呼んでこの秋にこれでイベントをやれ、と命じたものである。

まだ日本の輸入量は微々たるもので大手代理店がほぼ独占していたからプリンスホテルが参入する余地はないと思ったのだが、解禁日に新高輪プリンスホテルに招待された。その時前年のソムリエ大会で優勝したものの社内では一顧だにされなかった田崎真也氏が呼ばれ、シャンパングラスをピラミッド状に積み上げて上からボージョレーヌーボーを滝のように流すショーを見せられた。どこで調達したのか不思議だったが、プリンスホテルの営業力を見せつけられたものである。

ついでながら、翌日ホテル隣接のコースで義明氏とゴルフをした。何番かのティーグランドで私が打とうとしたら、左上の斜面からドタンドタンと生き物が走り降りてきた。イノシシと思ったので怖くはなかったが、小さいもののクマだった。クマの通り道をコースにしたので毎日の様に行き来しているとキャディーが教えてくれた。グリーンで寝ている時もあるというので、驚いたものだ。

このあたりがプリンスホテルに代表される義明ワールドのピークだったのだろう。バブル崩壊後、西武グループの経営は次第に厳しくなっていき、2004年4月8日に西武鉄道が総会屋に利益供与をしていたことが発覚、西武鉄道の会長職を降りた。このときはグループトップにとどまったが、2005年3月3日、西武鉄道株式に関する証券取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載、インサイダー取引)の疑いが発覚したのが命 取りになった。

東証一部に上場していたが、2004年12月17日上場廃止となった。また本人も東京地検特捜部に逮捕され、起訴される(判決は懲役2年6月、罰金500万円、執行猶予4年) こととなり、コクドおよび西武鉄道をはじめとする、すべてのグループ会社の役員職から辞任した。

同時に、西武鉄道グループはメインバンクであったみずほグループへ経営権が移り、コクド・西武鉄道・プリンスホテル間をめぐる堤家との複雑な資本関係は、西武ホー ルディングス発足と第三者割当増資によるサーベラスらの外部資本注入により整理された。2006年3月27日の再編では、グループ持株会社の西武ホールディングスのもとにプリンスホテルと西武鉄道が入り、コクドはプリンスホテルが吸収する形となった。

本人も表舞台から姿を消していたが、2011年7月16日にグランドプリンスホテル新高輪で催された日本オリンピック委員会(JOC)と日本体育協会の創立100周年祝賀式典に 招待され、初代日本オリンピック委員会会長を務めた経緯から特別功労者として表彰された。このとき石原慎太郎東京都知事の隣に立つ写真や映像がひさしぶりにメディア に出た。

堤義明氏が226億円支払い、西武と完全に訣別(2016.2.10)

堤氏の株の処分
堤氏所有の株の処分形態。
元オーナーは完全に西武と訣別する。
西武鉄道の有価証券報告書の虚偽記載で株価が急落したとして、同社とプリンスホテルを相手取り株主が起こした損害賠償請求訴訟をめぐり、西武ホールディングスは10日、元グループオーナーの堤義明氏ら旧経営陣から255億円を回収することで合意したと発表した。旧経営陣から、西武HDの筆頭株主である資産管理会社「NWコーポレーション」(旧コクド)の株式を取得する。これにより、西武HDと堤氏の間では、株式保有を通じた資本関係も完全に消滅する。
西武HDの前身である西武鉄道は、有価証券報告書の虚偽記載問題で2004年に上場廃止となり、株主からの損害賠償請求訴訟で226億円を支払った。西武側は、堤義明氏ら旧経営陣に責任があるとして支払いを求めていた。

堤氏は西武HD株を売却して現金7億円を支払うほか、保有するすべてのNW株(214億円相当)で代物弁済する。ほかの元役員4人もNW株を手放す。西武HDはこの金額を16年1~3月期決算に特別利益として計上する。かつて上場していた西武鉄道などが株主から起こされていた損賠訴訟は十数件あったが、訴訟の大半が決着したため、西武HDは昨年8月、同社がそれまで支払ってきた金額を堤氏らに請求していた。

堤氏は「従前より、会社に生じた負担は、ほかの元役員でなく私が負うべきものと考えていた。会社に資産の提供を申し出、身をゆだねることとした。解決に至り感謝している」と表明。西武HDの後藤高志社長は「当時の最高責任者として、潔く責任を全うしようとする姿勢を真摯に受け止めたい」とコメントした。

夫人も去り、残ったのは愛人2人とJOC最高顧問の肩書だけ
新聞の経済面では上のようなことだが、裏事情とその後はどうなのか。それにこたえる「週刊新潮」の記事があるので紹介する。

西武ホールディングスが255億円の「立て替え金」を堤氏から回収する形だが、この255億円というのは事件で西武鉄道が上場廃止となり、被害を被った株主から訴訟を起こされ敗訴したもの。賠償額はのちに西武ホールディングスが肩代わりしたが、2015年8月、堤氏と当時の経営陣4人が弁済を申し出てきた。とはいっても堤氏側にそんな現金はなかったので、会社 側はグループ内の持ち株会社「NWコーポレーション」の株を手放すことを求めた。

「NWコーポレーション」とは、グループの中核会社だった旧コクド(国土計画)を引き継いだ会社。今でも西武ホールディングスの株を15%持ち、堤氏はNW社の4割ほどの株主 だった。手放した株は910株。これは議決権が行使できる3分の1以上になり、株数がまとまっていることから1株3400万円の値段がつけられその金額は約309億円。そこから西武ホールディングスが立て替えた255億円(遅延損害金を含む)を差し引いた。堤氏に残ったのは約54億円となる。

堤氏は表向き神奈川県二宮町の屋敷に住んでいることになっている。そこには夫人も住んでいたが住民は最近見かけないという。「堤さんの行状にあきれ果てて出て行ったと聞きました。もともと堤家には『高輪スポーツ』というファミリー企業があり、テニススクールを経営し夫人が代表になっていた。NW社の株も29株持っていて1株3400万円の値がついているので総額 10億円近くになる。ところが4年前に夫人が代表を外れ、埼玉県の入間市に登記を移している」(西武グループ幹部)

入間市の住所には堤氏の愛人・O女史が住んでいる。もともと東京・杉並区の邸宅に住まわせていたので”荻窪夫人”と呼ばれていたが、事件後入間市の約1万平方メートルの邸宅に転居。堤氏が7億6000万円の金融債と月々75万円のお手当を出していることが明らかになっている。そんな愛人のところに大事なファミリー企業を移したのだから夫人も面白いはずがない。

「しかしそのO女史が住む邸宅にも最近行ってないようで、コクド時代の秘書で、その後堤氏の愛人になったT女史と行動していることが多い。彼女は”コクドの女帝”と呼ばれ軽井沢 の広大な別荘をもらっています」(同)

西武グループから縁を切られ、傘寿を過ぎた堤氏にいま残っているのは「JOC最高顧問」の肩書だけ。あの世の堤康次郎氏が見たら何と言うだろうか。(「週刊新潮」2016年3月17日号)

兄弟競いながら築き上げた二つの西武王国は、ほぼ同時に落日を迎え、カリスマ経営者も同時に姿を消した。サイトの亭主は双方を取材したことがある。堤清二氏のほうは辻井喬という文学者としてのインタビューだったので経営の話は一切なかった。堤義明氏のほうは何度か食事を共にして、上述のようにゴルフを一緒にしたこともある。共通しているのは両方の社員とも、客であるこちらのことなどまるで気にかけていなくて、ご主人様の顔色だけ伺っていたものだ。両方とも女優やタレントに手を出すのも共通していて 、そちらの面でも父親譲りのようである。

「八ヶ岳高原海の口自然郷」が出来上がる背景にあった会社やしのぎをけずった二つの同族グループの浮沈をみたところで、当初に紹介したこの土地の開 発計画の話に戻ります。上の写真は「西武八ケ岳高原海の口地区開発構想」の最初の方に掲載されているものです。開発対象地区の航空写真ですが、冊子の発行された時期から見て 1960年(昭和35年)以前の撮影でしょう。

同じころ撮影のカラー写真があります。右の写真ですが、これらを見てまず最初に驚くのは、この土地が緑いっぱいの山林だと思ったら、まるではげ山に近い状態であることです。しかも、これから開発するという時期ではなく、すでに 何年も前から手がつけられていました。左端に少しS字型に湾曲した道路が見えますが、現在多くの人が気に入っていて写真にもよく撮られるカラマツ並木のエントランスです。まだ樹高が低くて路面がむき出して写っていますから植樹されて間がないころでしょう。右端に上から下にほぼ直線で下りている道路が、現在、音楽堂前を通っている幹線道路です。
音楽堂はもちろんのこと、まだロッジもヒュッテもありませんでした。音楽堂前の道路の方が現在のエントランス道路より幅広いのが わかります。理由はこちらの方がメインだったからです。現在、誰でも「千が滝」方向から入って来ますが、この時期にはこの道路はありませんでした。今では閉鎖されていますが、音楽堂前の道路の右側(北)の八ヶ岳林道側に入り口があったのです。

わが山墅のある区画を歩くと、直径1メートル前後はあったと思われる大きな木の切り株が残っています。真ん中部分が朽ちてそこからシラビソの苗木が育ったりしています。 戦後、国有地だったこの原始林に近い森を切り倒した跡です。当時の西武の総帥、提康次郎が払い下げを受けた経過は上述のようなことですが、なにか昨今の緑資源機構をめぐる国 のでたらめ林野行政を見る思いです。開発計画を見ると、ここばかりでなく同時に払い下げを受けた稲子湯のあたりに持っていた土地とあわせて大規模開発しようとしていたようです。

樹木が少なくて、写真でも区割りがわかるところは最初に売り出された小丸地区あたりですが、この時の売り出し区画は1000坪とか2000坪単位だったようで、広々としていました。現在は400坪前後に小分けされているので隣とくっつきすぎています。それでも他の別荘地のように100坪とか150坪単位で団地のようになっているところよりはいいのでしょうが。現在では木が茂りすぎて、樹高も高くなり、赤岳や横岳も見えないとか、男山方向や富士山も見えないということを聞きますが、現在、うっそうと視界をさえぎるまで育った樹木、主にカラマツが多いですが、これらはすべて、この写真以後に植えたかこぼれ種で育ったものです。

そして、自然郷の現在の姿が下の写真です。カラマツが繁って全体に青々としていています。幹線道路も緑の中に埋没してよくわかりませんが、左上の赤い屋根がロッジです。オーナーならここから類推して自分の山荘がどこなのか判断できると思いますが、開発当初の殺伐さからしっとりとした自然郷の雰囲気がわかるかと思います。

次に計画書を見て興味をひかれるのは、現在のロッジを中心とした地区にふんだんに池を作り水遊びができる場所が計画されていたことです。地中海クラブのようなマンションのような建物の構想もありました。バブルがはじけておじゃんになったわけです。地中海クラブは真っ平ですが、ほかの地区がこの計画書通りになっていたらよほど魅力的なものになったことでしょう。惜しまれます。

この図は「センターゾーン」の設計図です。エントランスから周遊道路の曲がり方、登山口に至るなご原遊歩道、杣添川などの記述から、現在の八ヶ岳高原ロッジあたりと 思われます。このあたりはペンションやコテージ風の宿泊施設、林間学校やレストハウスが配置されています。一つとして実現していませんがこれでよかったと思わせられます。やたら人が多く出入りするありふれたリゾートの光景になったでしょうから。

ここからサイクリングロードが四方に伸びていて温室や花木園が配置されその先にはテニスコートなどのスポーツ施設、グラウンド、さらには円形劇場まで計画されています。 そして合計5つの池と水路。この図からは外れますが他の図面ではボートが浮かぶ池がたくさん計画されています。こういうのは実現していたら面白かったと思います。造園をやっている 友人が見て、「山の中ではあるがここはよほど水に恵まれているのだろう。親水公園のようなものを目差したのではないか」といいました。

現在のなご原地区の上の方、富士見地区、唐沢地区、杣添地区、高石地区などはこの設計図にはまったくありません。ホームページの「八ヶ岳雑記帳」でウソという野鳥が大好きな山口さん夫婦の話を紹介しましたが、私よりだいぶ古く、この図面が引かれた後に登山口近くに山荘を建てたのですが、こんな話をしていました。
「クルマで来るのですが、上の方は道路がありませんでしたね。今のヒュッテがホテルで、ここにクルマを置き、長靴に履き替えリュックを背負って登山口まで2キロほどでしょうか 家族でハイキングがてら歩きました」

なんだか、この時代が自然に還る原点だったような気がします。

自然郷にいる人が愛してやまない二つのビューポイントがあります。長くまっすぐなカラマツ並木のエントランスと八ケ岳をバックに森の中に佇む旧徳川邸のヒュッテです。

私がいる八ケ岳高原海の口自然郷では「標高1,500m」という広報の小冊子を季節ごとに出していて、頼まれて2009年4月発行の春の号の「リレーエッセー」に原稿を書きました。

八ヶ岳のカッコウの初啼きは5月20日です。この日付に3度も聞いたので結論づけました。ご近所のバードウォッチャーの方からも「それでいいでしょう」とお墨付き を頂きました。

昨年9月には8年に一度のヤスデの大発生を見ました。行列をつくって這い回っているのを3歳と1歳の孫娘が腕に這わせて遊びに興じていました。挙句クルマに乗せ て東京まで連れて帰るといいます。母親が震え上がって叱ろうとするので「この子達は一生虫が嫌いになるよ」と注意しました。

数年前に通りかかった方から「息子がヤスデの研究をしています。毒はなく無害ですが以前小海線の線路をふさいでから汽車ヤスデといわれてます」と8年ごと の大発生の理由と習性を教えていただいていました。孫たちはきっと「虫愛ずる姫君」のまま大きくなってくれるでしょう。

長年船医をされて陸に上がってからは八ヶ岳で過ごされていたご夫婦とお茶を一緒にしました。ヨーロッパの港町で仕入れた知識だそうですが、さらさらとタンポポ ワインのレシピを英語で書き残されました。さっぱりしたおいしいワインは今なお棚に健在です。

アメリカから持ち帰ったバードフィーダーに家内がテネシー州で買いました、と添え書きしたのをみて立ち止まった方と「私はナッシュビルのバンダービルト大学 にいました」と立ち話がはずみました。翌年、創立者のバンダービルドの館を訪れました。ロックフェラーと並んで全米で5本の指に入る途方もない鉄道王は別荘 までの専用線路を敷設しました。そのワインセラーで食事してアメリカ史の一端を知ることが出来ました。

「ヤマネに会いたい」と自分のホームページ「八ヶ岳の東から」に書いたところ、美鈴池近くの方から「今米びつの下に押し込めましたよ。早く来てください」と電話。念願の対面をしました。その直後、音楽堂の前にいる従妹夫婦がネズミかしらと紙袋に入れて我が山墅に持参したのはヤマネでした。先日見たばかりなのですぐわかりましたが、その夜一家5匹が台所の裏に逃げこみました。

餓死されたら困ると、清泉寮に付設の「やまねミュージアム」に相談したら湊秋作館長がトラップを持って駆けつけてくれました。「イギリスのヤマネは木の枝の上を歩きますが、日本のヤマネは枝の下をぶら下がりながら走ります。目下、この違いが東西の専門家の最大の研究テーマです」。ともに酒好きだったので夜半まで不思議な習性をうかがいました。こんな面白い話を独り占めするのはもったいない、自然郷の人たちに聞かせたいと思ったことでした。

ログハウスを建てて22年になります。私は「八ヶ岳シルクロード」と呼んでいますが、通りがかる方々からお話を伺うだけでソローの「森の生活」を読むように 、八ヶ岳の楽しみが深まるばかりです。 

海の口自然郷のオーナー会ができました(2012年4月)

【オーナー会結成のいきさつ】
サイトの亭主が多くの時間を過ごしている山墅は「八ヶ岳高原 海の口自然郷」と呼ばれていて、上述のように開発が手がけられてから半世紀以上が経ち、今では1400戸ほどの山荘が立ち並び、それぞれの生活を楽しんでいます。

2011年夏、突然地デジ問題が起こりました。この自然郷一帯にテレビ電波を送っていた男山の送信塔が突然廃止となり、南牧村の村営ケーブルテレビに入れ、と言われました。それはいいのですが、その工事費が「23万円」だといいます。NHKに聞いたら全国で高いところでも7万円です。おかしいではないか、と調べたら、実態は村民は無料、あとから申し込んだ村民でも自己負担は3万円程度であることがわかりました。要するにこの自然郷の住人だけ「23万円」という理不尽な扱いなのです。

自然郷内のあちこちで入居者の立ち話が自然発生的に起こり、そのうちの問題意識を持った人たちがすでに関係機関に働きかけていることもわかりました。いずれの人も南牧村役場や総務省の地デジ関係部署をたらいまわしにされていました。

典型的な役所仕事で、個人で立ち向かっても打開策が開けないとみて富士見地区の原田威夫氏が自然郷で知り合った人を一人ひとりたどって話し合ううちに自然発生的に数人の有志が集まり「オーナー会」が結成されました。ほとんどが東京在住だったこともあり、霞ヶ関のクラブなどで会合を重ね、総務大臣へ陳情するまでこぎつけました。

総務大臣から関東信越電波管理局などに陳情書が回り、自然郷1300戸(当時)全体が「難視聴地区」と認定され「B-CASカード」の番号を通知すれば衛星放送経由でNHKと民放の3局が視聴できるようになりました。しかし、これはあくまで暫定的救済策でしかなく、平成24年3月末で打ち切られました。

【その他の問題がつぎつぎ発生】
こうした自然郷住人への「敵視」策は、当時の南牧村長が共産党員、村議1人も共産党員ということでもたらされたものですが(その後共産党村長は失職、村議も落選)、これでは自然郷のオーナーは「金庫」(村の歳入の3,4割が自然郷から、と村長自身が告白)という理不尽な扱いから抜け出せないと、村役場と長い交渉の末、定期的にオーナー会と村長との懇談会が開かれるようになりました。

また、自然郷にはこのほかにも多くの問題が発生していました。

自然郷のプロパンガス供給は「カメヤ」(小海町)が一手に請け負っていましたが、デタラメで法令違反がたくさんあることがわかりました。例えばガスの分岐器具ですが、法令では劣化防止のため3年に一度交換が義務付けられているのに、殆どの山荘で放置され中には10数年経過というところもありました。

オーナー会では北杜市のミツウロコと交渉、安く、きちんと法令遵守をすることで多くの山荘が「カメヤ」との契約を破棄しました。「カメヤ」は全山荘の器具交換だけで3000万円以上かかるため耐えられず、自己破産、現在は岩谷産業長野に事務所ごと身売りして、なんの説明もされぬまま、従前の契約を続けられるようにして現在に至っています。プロパン契約はどこの業者を選ぼうがオーナーの自由なのです。

富士見地区に横岳の登山口があります。赤岳、横岳への最短コースというので近年人気が高まり、駐車場から溢れて数十台が路上駐車という日もあるくらいです。それはいいのですが近くの山荘で脱糞されるということが頻発しました。

登山者を敵視するのではなく、トイレがないのが誘因だと、村役場と交渉、登山口から30分ほど登った東屋のところに簡易トイレ2つが設置されました。

このほか、ごみ処理、カラマツ伐採、ニホンカモシカとシカの食害、放置家屋対策、外来植物による在来植物の後退 ・・・さまざまなテーマが発生しています。

互いの知恵を出しあって住みよい自然環境を作っていくために、志ある方々のオーナー会へ参加を呼びかける次第です。


日本林業経済史論 3―日本歴史と林業の見直し―西川善介(専修大学社会科学年報第43号)
https://www.senshu-u.ac.jp/~off1009/PDF/nishikawa_43.pdfはしがき
第一章 課題と研究史
第二章 「中世」伐出生産(木年貢制度)の実態――日本林業の最先進地帯、京都山国・黒田地方
第三章 「近世」丹波材生産と流通の実態
第1節太閤検地による木年貢制度廃止と名主体制の解体過程
以下本号
第2節 丹波材の材木市場
1 三か所仲間の概要
2 三か所仲間の生産地支配の変遷
第3節 丹波材の育林生産技術
第4節 丹波材の伐出生産構造
第四章 「近世」林業の二類型
第1節敗戦後の近世史の枠組みについて
第2節 「近世」林業の主要な歴史的傾向
第五章 領主的林業地帯
第1節木曽谷林業の概要
第2節林業労働組織の成立と変化
第六章 農民的林業地帯
第1節幕末武州一揆の発祥地、上名栗村の実態
第2節山民生活と商人
第3節林業の生産と流通
第4節幕末における資本家的林業の成立と理由
結び

結び
 戦後、大山林所有者の育林経営が近代化されるための方向として、育林業に素材業を兼業する一貫経営が論者によってたびたび主張されてきた。林業の現状からそういった発展の方向が期待されるかどうかはいずれふれるとして、既述したように幕末期の上名栗村においては、確かに、近代的林業経営を成立せしめた条件は、大山林所有者が素材業をも兼業したということである。

 明治16年の『山林共進会報告』で、同村において植林事業に直接貢献した者として平沼藤八(平沼家)、町田浦之助(既述の町田家)、浅見武八、柏木代八の4家が表彰されているが、いずれも山元の素材業者で、規模に相違はあるが、いずれも一貫経営を行っているものである。当時、上名栗村には12、3名の素材業者が存在したが、その多くが上位の山林所有者であった。

 もちろん素材業を専業とする業者も存在したが、そういう業者も資本の蓄積が進むと育林経営に従事する傾向にあった。明治20年代の上名栗村について鈴木尚夫氏が「明治20年代、この村には地元の『元締』(素材業者)が16人いたが、これらの業者は何れも山林所有者で、育林経営を併せ行っていた」(『分収林業』14頁)と聞取70日本林業経済史論 3りに基づく報告を行っているが、やはり同様の傾向が推測できるであろう。むろん大山林所有者が一貫経営を行う傾向は当時は上名栗村に限ったことではなく、旧時代の農民的林業地帯に関する限り、一般の事柄であった。

 したがってまた、常傭型林業労働もそういう地帯においては珍しい存在ではなかったわけである。彼等は植林から筏流しまでの全生 産過程に従事し、しかも日給制であった。その点で、育林過程と伐採過程をいわゆる領主的林業地帯のように本来的に異質のものとして峻別してしまう考え方は大きな修正を要するわけである。

 もちろん、そういう労働組織が歴史的諸条件と無関係に成立したわけでは決してない。だからこそ、旧時代の農民的林業地帯における大山林所有者の経営分析が必要だったのである。そして領主的林業地帯の林業経営と具体的に比較することによって、それらの諸条件はかなり明瞭になったと思う。


長野市誌 第三巻 歴史編 近世1

「時の駅」第3講座資料 江戸時代の土づくりに学ぶ ―『おじいさんは山へ柴刈りに』に関わって― R4.12.3 松上清志
https://takamori-tokinoeki.com/wp-content/uploads/2024/07/R4%E3%80%8C%E6%99%82%E3%81%AE%E9%A7%85%E3%80%8D%E7%AC%AC3%E8%AC%9B%E5%BA%A7.pdf
はじめに
・「高森町史を読む会」での学び ― 江戸時代に多発した山論(山争い)
農民たちが山をめぐる争いを頻繁に繰り広げたのには、どんな事情があったのか。
・高森自由大学での学び ― 城 雄二さんの炭素循環農法 ⇒現代農業の問題点
一、昔話「桃の子太郎」―岡山県の各地に伝わる「桃太郎」の話
「なんと昔があったそうな。じいさんとばあさんとおったそうな。
ある日、じいさんは山へ柴刈りに、ばあさんは川へ洗濯にいったそうな。・・・」
『岡山文庫㊴ 岡山の民話』岡山民話の会編 昭和46年初版発行
・なぜ「じいさんは山へ柴刈りに」が、定着したのか。
昔話は作られ、伝承されてきたなかで多くの人々を経てきているので、内容的にそれらの人々の願望や考え方、生活態度を反映したものとなっている。
山での柴刈りの重要性が認識されていた。
R4「時の駅」第3講座.pdf

江戸時代の森林と地域社会 - 徳川林政史研究所
https://rinseishi.tokugawa.or.jp/pdf_file/edojidainoshinrintochiikisyakai.pdf
江戸時代後期になると、同藩では飢饉などの影響により森林資源の枯渇が顕著となった。藩はこれに対処するべく、 森林利用に制限をかけたり、村々による植林を実施したり

木や森に関すること  (龍谷大学 先端理工学部 環境科学課程)
https://www.est.ryukoku.ac.jp/est/miyaura/memo/tree/tree.html

2011/06/30
「イノシシから田畑を守る」江口祐輔、農文協2003
(129-130)
 新田開発が盛んだった江戸時代前半は、動物たちを追うために、鉄砲が開墾に必要な農具として使用された。しかし、五代将軍綱吉の鉄砲改めによって強制的な追い払いが難しくなると、野生動物たちの逆襲が始まる。とりわけイノシシの被害は大きく、我々の祖先は「シシ垣」をつくってこれに対抗した。今もこの跡は各地に残っている。
 寛永2年、今から約250年前の八戸藩領内(今の八戸市周辺)で、イノシシのために1万5000石の被害が発生し、3000人以上も餓死した。いわゆるイノシシ飢饉である。
 これが起こった背景には、大消費地江戸の周辺農村で進む商品作物生産の余波があったといわれる。江戸近辺で雑穀栽培をしていた農家が養蚕など収益の上がる作目に転換するに伴い、基本食料であるダイズや雑穀の供給が細るようになっていた。この役割を担おうとしたのが、水田が少なく畑作が中心だった八戸周辺の農村である。問題はその生産様式。ここではそれをもっぱら焼畑で栽培したのである。
 焼畑は、2~3作つくると休耕する。その間、畑は放置されるために藪化し、クズやワラビが進入する。これらの根はイノシシの好物。イノシシの餌場をあちこちにつくることになる。その結果、イノシシが増え、いったん例外が発生すると、餌を求めて作物を襲い、大きな被害を出すようになったというのである(東京農工大・神崎伸夫先生)。
 この状況は、現在の中山間地にもよく似ている。耕地の放棄が常態化しているなかで藪が増え、イノシシの餌場となり、作物を襲う隠れ場所となっている。
明治時代の大乱獲
 江戸時代までは、我々の祖先は特別な武器を持たず、凄絶な闘いを繰り返してきた。闘わざるを得なかった。時には深刻な被害が発生した。
 その記憶も、しかし明治時代になると忘れてしまう。野生動物の大乱獲が始まったからだ。
 ニホンオオカミが絶滅し、カモシカ、トキ、コウノトリ等まで絶滅寸前に追い込まれたこの明治期の狩猟圧によって、わが国の野生動物は激減し、イノシシの個体数も低く抑えられた。このため、我々の祖父の世代ぐらいまで、野生動物に田んぼや畑を襲われる経験を、ほとんど持たなくなる。動物とは別々に暮らせるように思ってきたのである。


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