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├計量計測データバンク ニュースの窓-488-総力戦研究所とは何だったのか――NHKドラマ訴訟で再び注目 2026年10月6日
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総力戦研究所の真実――歴史の法廷に立つNHK 飯村豊 著
史実歪曲ドラマはこうしてつくられた。初代総力戦研究所長・飯村穣を卑劣な人間として描いたNHKと映画監督・石井裕也。その制作姿勢を告発し「戦争シミュレーション」の真の姿に迫る。NHKの番組で「祖父の名誉が傷つけられた」として、元外交官の飯村豊が、NHKや映画監督、制作会社などを相手取り損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こした。2025年8月16・17日に「NHKスペシャル
戦後80年番組」として「シミュレーション~昭和16年夏の敗戦」が放送され、総力戦研究所の所長が、飯村豊の祖父で実際の所長であった飯村穣陸軍中将とは全く異なる、卑劣な人間として描かれていたからだ。なぜこのようなことが起きたのか。それは、現実の総力戦研究所で行われてきたことを学ばず、目先の利益のためにはフィクションの衣を被れば史実を歪曲し、実在の人物を品性下劣に描いても良いと考えたからだ。総力戦研究所の「机上演習」がいかなるものだったのか。最新の研究も交えつつ、その実態に迫る。

総力戦研究所とは何だったのか――NHKドラマ訴訟で再び注目 2026年10月6日 · @横田俊英
2026年10月6日 文・横田俊英
「日本必敗」を予測した若手エリートの模擬内閣
戦後80年のNHKスペシャル「シミュレーション〜昭和16年夏の敗戦〜」と、その映画版『開戦前夜』をめぐり、総力戦研究所の初代所長・飯村穣陸軍中将の孫が名誉毀損でNHKなどを訴えている。日米開戦の4か月前、官民から選ばれた30代の研究生たちは模擬内閣を組み、対米戦の行方を「机上演習」で検証した。そして長期戦になれば日本の国力は持たないという見通しを示した。本稿は研究所の実像を史料と研究成果からたどり、あわせて訴訟の経緯と争点を整理する。
総力戦研究所は1940年(昭和15年)9月30日施行の勅令第648号(総力戦研究所官制)によって設置された。内閣総理大臣の直轄機関である。第2次近衛内閣の新体制運動のもとで、軍・官・民の結集を担う機関と位置づけられた。10月1日に企画院内で開所式が行われ、企画院総裁の星野直樹が所長事務を取り扱った。
業務は、国家総力戦に関する基本的な調査研究と、官吏などへの教育訓練である。設立を強く推したのは陸軍だった。それでも軍の機関とせず首相直轄としたのは、近代戦が軍事だけでなく思想・政略・経済に及ぶという認識があったためである。
モデルは英国の帝国国防大学である。文官と武官を区別せずに指導者を育てる英国の仕組みに、欧州に駐在した陸軍軍人の辰巳栄一や西浦進らが着目した。当初は「国防大学」の名称が検討されたが、「大学」の字を使えば文部省の所管問題が生じる。そのため西浦が起草した要綱案の仮称「総力戦研究所」がそのまま正式名称となった。実態は研究機関というより教育機関であり、今でいう「大学院大学」に近かったとされる。
初代所長には1941年1月、参謀本部の飯村穣中将が就任した。所員は陸海軍の佐官に加え、外務・大蔵・農林・商工各省の書記官らで構成された。
第1期研究生は同年4月1日に入所した。官僚27人(文官22人・武官5人)と民間人8人の計35人である。各省庁の推薦と面接で選ばれ、在籍中の給与は出身組織が負担した。資格要件は次の通りである。
閑院宮春仁王(陸軍中佐)も聴講生として加わった。研究生は講義を受けるほか、軍の演習を見学し、軍需工場や満州・中国も視察した。外部講師には尾崎秀実や辻政信も招かれた。研究生は第2期が39人(1942年)、第3期が40人(1943年)である。第3期は同年12月に繰り上げ卒業となった。
研究所の名を後世に残したのは、1941年夏の「第一回総力戦机上演習」である。研究生は仮想の日本政府「青国政府」の閣僚に割り当てられ、7月12日に模擬内閣を組閣した。主な顔ぶれは次の通りである。
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役職 |
担当した研究生(出身) |
|---|---|
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首相 |
窪田角一(産業組合中央金庫) |
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外相 |
千葉晃(外務省) |
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蔵相 |
今泉兼寛(大蔵省) |
|
陸相 |
白井正辰(陸軍大尉) |
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海相 |
志村正(海軍少佐) |
|
企画院総裁 |
玉置敬三(商工省) |
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日銀総裁 |
佐々木直(日本銀行) |
研究所側は統監部と統帥部(大本営)の役を担い、堀場一雄・松田千秋両所員が中心となった。演習は現実の情勢とほぼ同時に進められた。統監部が仮想の時期ごとに状況と課題を出し、模擬内閣は兵器増産、食糧・燃料の自給度、輸送路、同盟国との連携などを各種データで分析した。
作家の猪瀬直樹は著書『昭和16年夏の敗戦』(1983年)で、模擬内閣の結論を次のようにまとめている。緒戦は勝利しても物量で劣る日本に勝機はなく、長期戦の末にソ連参戦を迎えて敗れる。経営学者の野中郁次郎は、この分析が真珠湾攻撃と原爆投下を除いて後の戦局をほぼ正確に予測していたと評している。
演習の成果は8月27、28両日、首相官邸の「第一回総力戦机上演習総合研究会」で報告された。近衛文磨首相、東條英機陸相らが列席した。
閉会にあたり東條陸相は、これはあくまで演習であり、実際の戦争とは異なることを銘記してほしいという趣旨を述べたとされる。猪瀬の著書には「日露戦争でわが大日本帝国は、勝てるとは思わなかった。しかし、勝ったのであります」とする発言も紹介されている。ただしこれは研究生たちの記憶を重ねて復元したものとされ、公式記録には残っていない。
演習中の自由な空気については、研究生の証言が残る。蔵相役の今泉兼寛は「模擬内閣の結論を押さえ込もうという素振りが飯村所長になかった」と述べた。首相役の窪田角一も、所長から受けた人生観が大きな力になったと記している。
一方、海相役の志村正は戦後、「資源に乏しい我国が到底強大な米国等を敵にまわせるものではない」と発言した際、陸軍の所員から「出て行け」と一喝されたと回想している。統監部を担った堀場所員とは、大和魂をめぐって怒鳴り合いになったともいう。研究生への圧力をめぐる証言は、所長よりも所員や統監部に関わるものが多い。
飯村は同年10月に第5軍司令官へ転出し、後任には海軍の遠藤喜一中将が就いた。
研究所は開戦後も「長期戦研究」などを続けた。そして1945年(昭和20年)、勅令第115号により廃止された(4月1日施行)。
戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)では、研究内容が実際の戦局に近かったことから、研究所が開戦に関与したのではないかと追及された。しかし飯村元所長と堀場元所員はこれを否定し、関与は立証されなかった。
近年は異なる評価も出ている。経済史学者の牧野邦昭(『経済学者たちの日米開戦』2018年)は、研究所がもともと官僚の訓練施設として位置づけられ、研究成果を政策に生かすことは想定されていなかったと指摘する。教育機関だったからこそ自由に議論できた一方、政策には反映されなかったという見方である。
牧野はまた、研究所の資料に「長期戦にならざる限り」対米戦に勝算があるとする記述や、対ソ戦に備えた国力整備を提言する答申もあることを示した。そのうえで1941年8月の演習だけに注目するのは問題だとしている。
さらに当時、日米の国力差は企画院、陸軍省戦備課、秋丸機関などの分析で繰り返し示されていた。国民向けの雑誌などにも数字が公表されており、「必敗」の認識そのものは秘密ではなかったとの指摘もある。
原告は、飯村穣の孫で元駐仏大使の飯村豊氏(79歳)である。被告はNHKと石井裕也監督らで、問題とされたのは2025年8月16、17日に放送されたNHKスペシャル「シミュレーション〜昭和16年夏の敗戦〜」のドラマ部分と、その映画版『開戦前夜』である。
ドラマでは、飯村穣にあたる所長が架空の「板倉大道少将」として登場する。この人物は東條陸相の意向に沿うよう研究生に圧力をかけ、「日本必敗」の結論に対して「最前線に飛ばされるぞ」と脅す。原告側は、実際の飯村は自由な議論を保障し開戦にも反対していたとして、描写は「正反対」だと主張している。
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時期 |
出来事 |
|---|---|
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2026年10月5日 |
第4回口頭弁論(東京地裁)。本稿執筆時点で内容の報道は確認できていない |
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2026年7月31日 |
映画が公開。抗議を受け7月19日の試写会は中止 |
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2026年7月22日 |
第3回口頭弁論で、映画の上映差し止めを請求に追加 |
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2026年6月 |
飯村豊『総力戦研究所の真実―歴史の法廷に立つNHK』(筑摩書房)刊行 |
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2025年12月25日 |
映画版の公開が発表される |
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2025年12月24日 |
東京地裁に提訴。550万円の損害賠償を請求 |
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2025年10月 |
BPOに要望書を提出 |
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2025年9月 |
『文藝春秋』10月号で告発 |
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2025年7月ごろ |
放送の約1か月前にNHKへ抗議。冒頭に「フィクション」の表示が加わったが、原告は「小手先の対応」と批判 |
裁判所が示した争点は二つである。第一に、視聴者が「板倉少将=飯村穣」と認識できるか(同定可能性)。第二に、遺族の「敬愛追慕の情」への侵害が受忍限度を超えるかである。
製作委員会は、作品は「史料や記録に基づくフィクション」であり、板倉は名前・容姿・階級が異なる架空の人物だと反論している。映画版では「所長」の肩書きを外し、冒頭にフィクションである旨を示したとも述べている。メディア評論家の境治氏は、問題の本質は映画よりも、ドキュメンタリーとドラマを混ぜたNHKスペシャルの構成にあると指摘する。
史実との照合にあたっては、前述の研究生証言を収めた森松俊夫『総力戦研究所』(1983年)と、国立国会図書館が所蔵する東京裁判の法廷証第686号・第871号が手がかりとなる。
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年月日 |
出来事 |
|---|---|
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1940年9月30日 |
総力戦研究所官制施行(勅令第648号) |
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1940年10月1日 |
開所式 |
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1941年1月 |
飯村穣中将が初代所長に就任 |
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1941年4月1日 |
第1期研究生35人が入所 |
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1941年7月12日 |
模擬内閣「青国政府」を組閣 |
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1941年8月27〜28日 |
首相官邸で机上演習の総合研究会 |
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1941年10月 |
飯村所長が転出 |
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1941年12月8日 |
日米開戦 |
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1942年・1943年 |
第2期・第3期研究生が入所 |
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1945年4月1日 |
廃止(勅令第115号) |
[註]
玉置敬三(たまき けいぞう)
1907年(明治40年)3月2日、和歌山県生まれ。1996年(平成8年)7月8日没、享年89。
年 経歴
1930年3月 東京帝国大学法学部卒業(旧制姫路高等学校を経る)
1930年4月 商工省入省
1941年 総力戦研究所へ出向。当時の本職は商工省物資局第二部化学課長。7月の模擬内閣では企画院総裁役
1946〜48年 商工省賠償実施局長
1948〜49年 商工省電力局長
1949〜52年 通商産業省通商機械局長
1952〜53年 通商産業事務次官(1953年11月退官)
1954年8月 東京芝浦電気(東芝)に嘱託として入社
1955年5月 取締役
1960年5月 常務取締役(総務部長・人事部長を兼務)
1966年5月 副社長
1972年8月 社長(同年11月から石川島播磨重工業の取締役も兼務)
1976年6月 会長
1980年 相談役
1978年 勲一等瑞宝章
1996年 従三位(没後の叙位)
家族は、父が玉置駒三郎、妻の徳子は大蔵大臣を務めた勝田主計(貴族院議員)の五女。
1970年代ごろ計量行政審議会会長を務めていた。
次はテキスト版
新聞掲載用原稿:総力戦研究所とは何か
【見出し】
「日本必敗」を予測した若手エリートの模擬内閣
総力戦研究所とは何だったのか――NHKドラマ訴訟で再び注目
【リード】
戦後80年のNHKスペシャルとその映画版『開戦前夜』をめぐり、総力戦研究所の初代所長・飯村穣陸軍中将の孫が名誉毀損を訴えている。これを機に、同研究所に改めて関心が集まっている。日米開戦の4か月前、官民から選ばれた30代の研究生たちは模擬内閣を組んだ。そして対米戦の行方をシミュレーションした「机上演習」で、長期戦になれば日本の国力は持たないという見通しを示した。研究所の実像を史料と研究成果からたどる。
■首相直轄の「大学院大学」
総力戦研究所は1940年(昭和15年)9月30日施行の勅令第648号(総力戦研究所官制)によって設置された。内閣総理大臣の直轄機関である。第2次近衛内閣の新体制運動のもとで、軍・官・民の結集を担う機関と位置づけられた。10月1日に企画院内で開所式が行われ、企画院総裁の星野直樹が所長事務を取り扱った。
業務は、国家総力戦に関する基本的な調査研究と、官吏などへの教育訓練である。設立を強く推したのは陸軍だった。それでも軍の機関とせず首相直轄としたのは、近代戦が軍事だけでなく思想・政略・経済に及ぶという認識があったためである。
モデルは英国の帝国国防大学である。英国では文官と武官を区別せずに指導者を育てており、欧州に駐在した陸軍軍人の辰巳栄一や西浦進らがこれに着目した。当初は「国防大学」の名称が検討された。しかし「大学」の字を使えば文部省の所管問題が生じるとして、西浦が起草した要綱案の仮称「総力戦研究所」がそのまま正式名称となった。実態は研究機関というより教育機関、今でいう「大学院大学」に近かったとされる。
■35人の研究生
初代所長には1941年1月、参謀本部の飯村穣中将が就任した。所員は陸海軍の佐官に加え、外務・大蔵・農林・商工各省の書記官らで構成された。
第1期研究生は同年4月1日に入所した。官僚27人(文官22人・武官5人)と民間人8人の計35人である。各省庁の推薦と面接で選ばれた。資格要件は次の通りで、在籍中の給与は出身組織が負担した。
武官は少佐か大尉、文官は高等官四〜六等で任官5年以上
閑院宮春仁王(陸軍中佐)も聴講生として加わった。
研究生は講義を受けるほか、軍の演習を見学し、軍需工場や満州・中国も視察した。外部講師には尾崎秀実や辻政信も招かれた。研究生は第2期が39人(1942年)、第3期が40人(1943年)である。第3期は同年12月に繰り上げ卒業となった。
■模擬内閣「青国政府」
研究所の名を後世に残したのは、1941年夏の「第一回総力戦机上演習」である。研究生は仮想の日本政府「青国政府」の閣僚に割り当てられ、7月12日に模擬内閣を組閣した。主な顔ぶれは次の通りである。
首相:窪田角一(産業組合中央金庫)
研究所側は統監部と統帥部(大本営)の役を担い、堀場一雄・松田千秋両所員が中心となった。
演習は現実の情勢とほぼ同時に進められた。統監部は仮想の時期ごとに状況と課題を出し、模擬内閣は兵器増産、食糧・燃料の自給度、輸送路、同盟国との連携などを各種データで分析した。
作家の猪瀬直樹は著書『昭和16年夏の敗戦』(1983年)で、模擬内閣の結論を次のようにまとめている。緒戦は勝利しても物量で劣る日本に勝機はなく、長期戦の末にソ連参戦を迎えて敗れる。経営学者の野中郁次郎は、この分析が真珠湾攻撃と原爆投下を除いて後の戦局をほぼ正確に予測していたと評している。
■首相官邸での報告と東條発言
演習の成果は8月27、28両日、首相官邸の「第一回総力戦机上演習総合研究会」で報告された。近衛文麿首相、東條英機陸相らが列席した。
閉会にあたり東條陸相は、これはあくまで演習であり、実際の戦争とは異なることを銘記してほしいという趣旨を述べたとされる。猪瀬の著書には「日露戦争でわが大日本帝国は、勝てるとは思わなかった。しかし、勝ったのであります」とする発言も紹介されている。ただしこれは、研究生たちの記憶を重ねて復元したものとされ、公式記録には残っていない。
■所長・飯村穣の人物像
演習中の自由な空気については、研究生の証言が残る。蔵相役の今泉兼寛は「模擬内閣の結論を押さえ込もうという素振りが飯村所長になかった」と述べた。首相役の窪田角一も、所長から受けた人生観が大きな力になったと記している。
一方、海相役の志村正は戦後、「資源に乏しい我国が到底強大な米国等を敵にまわせるものではない」と発言した際、陸軍の所員から「出て行け」と一喝されたと回想している。
飯村は同年10月に第5軍司令官へ転出し、後任には海軍の遠藤喜一中将が就いた。
■開戦、そして廃止
研究所は開戦後も「長期戦研究」などを続けた。そして1945年(昭和20年)、勅令第115号により廃止された(4月1日施行)。
戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)では、研究内容が実際の戦局に近かったことから、研究所が開戦に関与したのではないかと追及された。しかし飯村元所長と堀場元所員はこれを否定し、関与は立証されなかった。
■「過大評価」とする見方も
近年は異なる評価も出ている。経済史学者の牧野邦昭(『経済学者たちの日米開戦』2018年)は、研究所がもともと官僚の訓練施設として位置づけられ、研究成果を政策に生かすことは想定されていなかったと指摘する。教育機関だったからこそ自由に議論できた一方、政策には反映されなかったという見方である。
牧野はまた、研究所が作成した資料の中に「長期戦にならざる限り」対米戦に勝算があるとする記述や、対ソ戦に備えた国力整備を提言する答申もあることを示した。そのうえで、1941年8月の演習だけに注目するのは問題だとしている。
さらに当時、日米の国力差は企画院、陸軍省戦備課、秋丸機関などの分析で繰り返し示されていた。国民向けの雑誌などにも数字が公表されており、「必敗」の認識そのものは秘密ではなかったとの指摘もある。
【メモ】総力戦研究所の歩み
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 1940年9月30日 | 総力戦研究所官制施行(勅令第648号) |
| 1940年10月1日 | 開所式 |
| 1941年1月 | 飯村穣中将が初代所長に就任 |
| 1941年4月1日 | 第1期研究生35人が入所 |
| 1941年7月12日 | 模擬内閣「青国政府」を組閣 |
| 1941年8月27〜28日 | 首相官邸で机上演習の総合研究会 |
| 1941年10月 | 飯村所長が転出 |
| 1941年12月8日 | 日米開戦 |
| 1942年・1943年 | 第2期・第3期研究生が入所 |
| 1945年4月1日 | 廃止(勅令第115号) |
【主な参考文献】
2026年10月5日に予定されていた第4回口頭弁論の結果は、まだ。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 放送の約1か月前 | 飯村氏がNHKに抗議。冒頭に「フィクション」のテロップが追加されたが、氏は「小手先の対応」と批判 |
| 2025年9月 | 『文藝春秋』10月号で告発 |
| 2025年10月 | BPOに要望書を提出 |
| 2025年12月24日 | 東京地裁に提訴(550万円の損害賠償請求) |
| 2025年12月25日 | 映画版の公開が発表される |
| 2026年6月 | 飯村豊『総力戦研究所の真実―歴史の法廷に立つNHK』(筑摩書房、3,080円)が刊行 |
| 2026年7月22日 | 第3回口頭弁論で、映画の上映差し止めを請求に追加 |
| 2026年7月31日 | 映画が公開される(抗議を受けて7月19日の試写会は中止) |
| 2026年10月5日 | 第4回口頭弁論の予定(東京地裁705法廷) |
争点と双方の主張
お送りいただいたWikipediaの記事には、原告側の主張を裏付ける記述が含まれています。
一方で「最近の研究」の節では、牧野邦昭が、8月の演習のみを重視するのは過大評価だと指摘しています。猪瀬直樹の本が描く「日本必敗」の物語とは、少し距離のある見方です。
一次資料としては、森松俊夫『総力戦研究所』(1983)と、国立国会図書館所蔵の極東国際軍事裁判の法廷証第686号・第871号が、所長の実際の言動を確かめる手がかりになります。
10月5日の弁論の結果が報じられたら追って調べられます。また、この内容を共有用の資料(ドキュメント)にまとめることもできます。
text fil版
総力戦研究所とは何だったのか――NHKドラマ訴訟で再び注目
2026年10月6日 · @横田俊英
総力戦研究所とは何だったのか――NHKドラマ訴訟で再び注目
2026年10月6日 文・横田俊英
「日本必敗」を予測した若手エリートの模擬内閣
戦後80年のNHKスペシャル「シミュレーション〜昭和16年夏の敗戦〜」と、その映画版『開戦前夜』をめぐり、総力戦研究所の初代所長・飯村穣陸軍中将の孫が名誉毀損でNHKなどを訴えている。日米開戦の4か月前、官民から選ばれた30代の研究生たちは模擬内閣を組み、対米戦の行方を「机上演習」で検証した。そして長期戦になれば日本の国力は持たないという見通しを示した。本稿は研究所の実像を史料と研究成果からたどり、あわせて訴訟の経緯と争点を整理する。
首相直轄の「大学院大学」
総力戦研究所は1940年(昭和15年)9月30日施行の勅令第648号(総力戦研究所官制)によって設置された。内閣総理大臣の直轄機関である。第2次近衛内閣の新体制運動のもとで、軍・官・民の結集を担う機関と位置づけられた。10月1日に企画院内で開所式が行われ、企画院総裁の星野直樹が所長事務を取り扱った。
業務は、国家総力戦に関する基本的な調査研究と、官吏などへの教育訓練である。設立を強く推したのは陸軍だった。それでも軍の機関とせず首相直轄としたのは、近代戦が軍事だけでなく思想・政略・経済に及ぶという認識があったためである。
モデルは英国の帝国国防大学である。文官と武官を区別せずに指導者を育てる英国の仕組みに、欧州に駐在した陸軍軍人の辰巳栄一や西浦進らが着目した。当初は「国防大学」の名称が検討されたが、「大学」の字を使えば文部省の所管問題が生じる。そのため西浦が起草した要綱案の仮称「総力戦研究所」がそのまま正式名称となった。実態は研究機関というより教育機関であり、今でいう「大学院大学」に近かったとされる。
35人の研究生
初代所長には1941年1月、参謀本部の飯村穣中将が就任した。所員は陸海軍の佐官に加え、外務・大蔵・農林・商工各省の書記官らで構成された。
第1期研究生は同年4月1日に入所した。官僚27人(文官22人・武官5人)と民間人8人の計35人である。各省庁の推薦と面接で選ばれ、在籍中の給与は出身組織が負担した。資格要件は次の通りである。
• 武官は少佐か大尉、文官は高等官四〜六等で任官5年以上
• 民間人は文武官と同等の職歴を持つこと
• 年齢はおおむね35歳まで
閑院宮春仁王(陸軍中佐)も聴講生として加わった。研究生は講義を受けるほか、軍の演習を見学し、軍需工場や満州・中国も視察した。外部講師には尾崎秀実や辻政信も招かれた。研究生は第2期が39人(1942年)、第3期が40人(1943年)である。第3期は同年12月に繰り上げ卒業となった。
模擬内閣「青国政府」
研究所の名を後世に残したのは、1941年夏の「第一回総力戦机上演習」である。研究生は仮想の日本政府「青国政府」の閣僚に割り当てられ、7月12日に模擬内閣を組閣した。主な顔ぶれは次の通りである。
役職
担当した研究生(出身)
首相
窪田角一(産業組合中央金庫)
外相
千葉晃(外務省)
蔵相
今泉兼寛(大蔵省)
陸相
白井正辰(陸軍大尉)
海相
志村正(海軍少佐)
企画院総裁
玉置敬三(商工省)
日銀総裁
佐々木直(日本銀行)
研究所側は統監部と統帥部(大本営)の役を担い、堀場一雄・松田千秋両所員が中心となった。演習は現実の情勢とほぼ同時に進められた。統監部が仮想の時期ごとに状況と課題を出し、模擬内閣は兵器増産、食糧・燃料の自給度、輸送路、同盟国との連携などを各種データで分析した。
• 演習開始前後の現実:1941年7月、米国が在米日本資産を凍結し、日本軍が南部仏印に進駐した。8月1日には米国が石油の対日禁輸に踏み切った。
• 第6期(仮想11月):模擬内閣は蘭領東インド(現インドネシア)への進出を前倒しで実行した。あわせて、準備が整い次第「好機を捕捉して先制開戦することを決意」しつつ外交交渉を続けると閣議決定した。
• 第7期(仮想12月):陸相役が開戦を提案した。海相役の志村は対米長期消耗戦は国力の上で必敗だと論じ、他の閣僚も同調した。閣議は開戦を見送ったが、模擬大本営の主張によって仮想12月20日の対米開戦が決まった。
• 第9期(仮想1942年):ソ連の中立違反と、ドイツからの対ソ参戦要求という状況が示された。閣議は一致しないまま対ソ開戦が決まり、内閣改造が具申される事態となった。
作家の猪瀬直樹は著書『昭和16年夏の敗戦』(1983年)で、模擬内閣の結論を次のようにまとめている。緒戦は勝利しても物量で劣る日本に勝機はなく、長期戦の末にソ連参戦を迎えて敗れる。経営学者の野中郁次郎は、この分析が真珠湾攻撃と原爆投下を除いて後の戦局をほぼ正確に予測していたと評している。
首相官邸での報告と東條発言
演習の成果は8月27、28両日、首相官邸の「第一回総力戦机上演習総合研究会」で報告された。近衛文磨首相、東條英機陸相らが列席した。
閉会にあたり東條陸相は、これはあくまで演習であり、実際の戦争とは異なることを銘記してほしいという趣旨を述べたとされる。猪瀬の著書には「日露戦争でわが大日本帝国は、勝てるとは思わなかった。しかし、勝ったのであります」とする発言も紹介されている。ただしこれは研究生たちの記憶を重ねて復元したものとされ、公式記録には残っていない。
所長・飯村穣の人物像
演習中の自由な空気については、研究生の証言が残る。蔵相役の今泉兼寛は「模擬内閣の結論を押さえ込もうという素振りが飯村所長になかった」と述べた。首相役の窪田角一も、所長から受けた人生観が大きな力になったと記している。
一方、海相役の志村正は戦後、「資源に乏しい我国が到底強大な米国等を敵にまわせるものではない」と発言した際、陸軍の所員から「出て行け」と一喝されたと回想している。統監部を担った堀場所員とは、大和魂をめぐって怒鳴り合いになったともいう。研究生への圧力をめぐる証言は、所長よりも所員や統監部に関わるものが多い。
飯村は同年10月に第5軍司令官へ転出し、後任には海軍の遠藤喜一中将が就いた。
開戦、そして廃止
研究所は開戦後も「長期戦研究」などを続けた。そして1945年(昭和20年)、勅令第115号により廃止された(4月1日施行)。
戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)では、研究内容が実際の戦局に近かったことから、研究所が開戦に関与したのではないかと追及された。しかし飯村元所長と堀場元所員はこれを否定し、関与は立証されなかった。
「過大評価」とする見方も
近年は異なる評価も出ている。経済史学者の牧野邦昭(『経済学者たちの日米開戦』2018年)は、研究所がもともと官僚の訓練施設として位置づけられ、研究成果を政策に生かすことは想定されていなかったと指摘する。教育機関だったからこそ自由に議論できた一方、政策には反映されなかったという見方である。
牧野はまた、研究所の資料に「長期戦にならざる限り」対米戦に勝算があるとする記述や、対ソ戦に備えた国力整備を提言する答申もあることを示した。そのうえで1941年8月の演習だけに注目するのは問題だとしている。
さらに当時、日米の国力差は企画院、陸軍省戦備課、秋丸機関などの分析で繰り返し示されていた。国民向けの雑誌などにも数字が公表されており、「必敗」の認識そのものは秘密ではなかったとの指摘もある。
NHKドラマをめぐる訴訟
原告は、飯村穣の孫で元駐仏大使の飯村豊氏(79歳)である。被告はNHKと石井裕也監督らで、問題とされたのは2025年8月16、17日に放送されたNHKスペシャル「シミュレーション〜昭和16年夏の敗戦〜」のドラマ部分と、その映画版『開戦前夜』である。
ドラマでは、飯村穣にあたる所長が架空の「板倉大道少将」として登場する。この人物は東條陸相の意向に沿うよう研究生に圧力をかけ、「日本必敗」の結論に対して「最前線に飛ばされるぞ」と脅す。原告側は、実際の飯村は自由な議論を保障し開戦にも反対していたとして、描写は「正反対」だと主張している。
時期
出来事
2026年10月5日
第4回口頭弁論(東京地裁)。本稿執筆時点で内容の報道は確認できていない
2026年7月31日
映画が公開。抗議を受け7月19日の試写会は中止
2026年7月22日
第3回口頭弁論で、映画の上映差し止めを請求に追加
2026年6月
飯村豊『総力戦研究所の真実―歴史の法廷に立つNHK』(筑摩書房)刊行
2025年12月25日
映画版の公開が発表される
2025年12月24日
東京地裁に提訴。550万円の損害賠償を請求
2025年10月
BPOに要望書を提出
2025年9月
『文藝春秋』10月号で告発
2025年7月ごろ
放送の約1か月前にNHKへ抗議。冒頭に「フィクション」の表示が加わったが、原告は「小手先の対応」と批判
裁判所が示した争点は二つである。第一に、視聴者が「板倉少将=飯村穣」と認識できるか(同定可能性)。第二に、遺族の「敬愛追慕の情」への侵害が受忍限度を超えるかである。
製作委員会は、作品は「史料や記録に基づくフィクション」であり、板倉は名前・容姿・階級が異なる架空の人物だと反論している。映画版では「所長」の肩書きを外し、冒頭にフィクションである旨を示したとも述べている。メディア評論家の境治氏は、問題の本質は映画よりも、ドキュメンタリーとドラマを混ぜたNHKスペシャルの構成にあると指摘する。
史実との照合にあたっては、前述の研究生証言を収めた森松俊夫『総力戦研究所』(1983年)と、国立国会図書館が所蔵する東京裁判の法廷証第686号・第871号が手がかりとなる。
総力戦研究所の歩み(年表)
年月日
出来事
1940年9月30日
総力戦研究所官制施行(勅令第648号)
1940年10月1日
開所式
1941年1月
飯村穣中将が初代所長に就任
1941年4月1日
第1期研究生35人が入所
1941年7月12日
模擬内閣「青国政府」を組閣
1941年8月27〜28日
首相官邸で机上演習の総合研究会
1941年10月
飯村所長が転出
1941年12月8日
日米開戦
1942年・1943年
第2期・第3期研究生が入所
1945年4月1日
廃止(勅令第115号)
主な参考文献
• 森松俊夫『総力戦研究所』(白帝社、1983年)
• 猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』(世界文化社1983年、文春文庫1986年、中公文庫新版)
• 牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦』(新潮選書、2018年)
• 粟屋憲太郎編『総力戦研究所関係資料集』(不二出版、2016〜17年)
• 飯村豊『総力戦研究所の真実』(筑摩書房、2026年)
• 極東国際軍事裁判 法廷証第686号・第871号(国立国会図書館所蔵)
本稿の注記
• 研究所の廃止時期について、アジア歴史資料センターは「1945年3月」、Wikipediaは「4月1日施行の勅令第115号」とする。本稿は施行日に従った。
• 机上演習の経過と関係者の証言は、森松俊夫、猪瀬直樹、粟屋憲太郎の各著作と、それらを出典とするWikipediaの記述に拠った。
• 訴訟の状況は2026年10月6日時点の報道に基づく。
出典
• アジア歴史資料センター 用語解説「総力戦研究所」
• Wikipedia「総力戦研究所」
• 歳川隆雄「総力戦研究所と昭和16年夏の敗戦」(現代ビジネス、2020年8月15日)
• NHK戦後80年ドラマ巡り提訴(時事ドットコム、2025年12月24日)
• NHK映画、公開差し止め請求 戦後80年ドラマ巡り遺族側(時事ドットコム、2026年7月22日)
• 映画公開、差し止めを請求(熊本日日新聞、2026年7月22日)
• 「NHKが祖父の名誉を傷つけた」…遺族が会見(弁護士JP)
• 映画「開戦前夜」が声明(J-CAST、2026年6月)
• 映画『開戦前夜』製作委員会 声明文
• 総力戦研究所2.0(飯村豊氏のサイト)
• 総力戦研究所所長の孫・飯村豊氏が抗議(文春オンライン、2025年9月)
• 境治「問題の本質はNHKスペシャルの構成にある」(note)
• 遺族、NHK戦争特番巡り要望書 BPOに(さきがけ)
[註]
玉置敬三(たまき けいぞう)
1907年(明治40年)3月2日、和歌山県生まれ。1996年(平成8年)7月8日没、享年89。
年 経歴
1930年3月 東京帝国大学法学部卒業(旧制姫路高等学校を経る)
1930年4月 商工省入省
1941年 総力戦研究所へ出向。当時の本職は商工省物資局第二部化学課長。7月の模擬内閣では企画院総裁役
1946〜48年 商工省賠償実施局長
1948〜49年 商工省電力局長
1949〜52年 通商産業省通商機械局長
1952〜53年 通商産業事務次官(1953年11月退官)
1954年8月 東京芝浦電気(東芝)に嘱託として入社
1955年5月 取締役
1960年5月 常務取締役(総務部長・人事部長を兼務)
1966年5月 副社長
1972年8月 社長(同年11月から石川島播磨重工業の取締役も兼務)
1976年6月 会長
1980年 相談役
1978年 勲一等瑞宝章
1996年 従三位(没後の叙位)
家族は、父が玉置駒三郎、妻の徳子は大蔵大臣を務めた勝田主計(貴族院議員)の五女。
1970年代ごろ計量行政審議会会長を務めていた。
新聞掲載用原稿:総力戦研究所とは何か
【見出し】
「日本必敗」を予測した若手エリートの模擬内閣
総力戦研究所とは何だったのか――NHKドラマ訴訟で再び注目
【リード】
戦後80年のNHKスペシャルとその映画版『開戦前夜』をめぐり、総力戦研究所の初代所長・飯村穣陸軍中将の孫が名誉毀損を訴えている。これを機に、同研究所に改めて関心が集まっている。日米開戦の4か月前、官民から選ばれた30代の研究生たちは模擬内閣を組んだ。そして対米戦の行方をシミュレーションした「机上演習」で、長期戦になれば日本の国力は持たないという見通しを示した。研究所の実像を史料と研究成果からたどる。
■首相直轄の「大学院大学」
総力戦研究所は1940年(昭和15年)9月30日施行の勅令第648号(総力戦研究所官制)によって設置された。内閣総理大臣の直轄機関である。第2次近衛内閣の新体制運動のもとで、軍・官・民の結集を担う機関と位置づけられた。10月1日に企画院内で開所式が行われ、企画院総裁の星野直樹が所長事務を取り扱った。
業務は、国家総力戦に関する基本的な調査研究と、官吏などへの教育訓練である。設立を強く推したのは陸軍だった。それでも軍の機関とせず首相直轄としたのは、近代戦が軍事だけでなく思想・政略・経済に及ぶという認識があったためである。
モデルは英国の帝国国防大学である。英国では文官と武官を区別せずに指導者を育てており、欧州に駐在した陸軍軍人の辰巳栄一や西浦進らがこれに着目した。当初は「国防大学」の名称が検討された。しかし「大学」の字を使えば文部省の所管問題が生じるとして、西浦が起草した要綱案の仮称「総力戦研究所」がそのまま正式名称となった。実態は研究機関というより教育機関、今でいう「大学院大学」に近かったとされる。
■35人の研究生
初代所長には1941年1月、参謀本部の飯村穣中将が就任した。所員は陸海軍の佐官に加え、外務・大蔵・農林・商工各省の書記官らで構成された。
第1期研究生は同年4月1日に入所した。官僚27人(文官22人・武官5人)と民間人8人の計35人である。各省庁の推薦と面接で選ばれた。資格要件は次の通りで、在籍中の給与は出身組織が負担した。
武官は少佐か大尉、文官は高等官四〜六等で任官5年以上
民間人は文武官と同等の職歴を持つこと
年齢はおおむね35歳まで
閑院宮春仁王(陸軍中佐)も聴講生として加わった。
研究生は講義を受けるほか、軍の演習を見学し、軍需工場や満州・中国も視察した。外部講師には尾崎秀実や辻政信も招かれた。研究生は第2期が39人(1942年)、第3期が40人(1943年)である。第3期は同年12月に繰り上げ卒業となった。
■模擬内閣「青国政府」
研究所の名を後世に残したのは、1941年夏の「第一回総力戦机上演習」である。研究生は仮想の日本政府「青国政府」の閣僚に割り当てられ、7月12日に模擬内閣を組閣した。主な顔ぶれは次の通りである。
首相:窪田角一(産業組合中央金庫)
外相:千葉晧(外務省)
蔵相:今泉兼寛(大蔵省)
陸相:白井正辰(陸軍大尉)
海相:志村正(海軍少佐)
企画院総裁:玉置敬三(商工省)
日銀総裁:佐々木直(日本銀行)
研究所側は統監部と統帥部(大本営)の役を担い、堀場一雄・松田千秋両所員が中心となった。
演習は現実の情勢とほぼ同時に進められた。統監部は仮想の時期ごとに状況と課題を出し、模擬内閣は兵器増産、食糧・燃料の自給度、輸送路、同盟国との連携などを各種データで分析した。
演習開始前後の現実:1941年7月、米国が在米日本資産を凍結し、日本軍が南部仏印に進駐した。8月1日には米国が石油の対日禁輸に踏み切った。
第6期(仮想11月):模擬内閣は蘭領東インド(現インドネシア)への進出を前倒しで実行する。その一方で、準備が整い次第「好機を捕捉して先制開戦することを決意」しつつ外交交渉を続けると閣議決定した。
第7期(仮想12月):陸相役が開戦を提案した。これに対し海相役の志村は、対米長期消耗戦は国力の上で必敗だと論じ、他の閣僚も同調した。閣議は開戦を見送ったが、模擬大本営の主張によって仮想12月20日の対米開戦が決まった。
第9期(仮想1942年):ソ連の中立違反と、ドイツからの対ソ参戦要求という状況が示された。閣議は一致しないまま対ソ開戦が決まり、内閣改造が具申される事態となった。
作家の猪瀬直樹は著書『昭和16年夏の敗戦』(1983年)で、模擬内閣の結論を次のようにまとめている。緒戦は勝利しても物量で劣る日本に勝機はなく、長期戦の末にソ連参戦を迎えて敗れる。経営学者の野中郁次郎は、この分析が真珠湾攻撃と原爆投下を除いて後の戦局をほぼ正確に予測していたと評している。
■首相官邸での報告と東條発言
演習の成果は8月27、28両日、首相官邸の「第一回総力戦机上演習総合研究会」で報告された。近衛文麿首相、東條英機陸相らが列席した。
閉会にあたり東條陸相は、これはあくまで演習であり、実際の戦争とは異なることを銘記してほしいという趣旨を述べたとされる。猪瀬の著書には「日露戦争でわが大日本帝国は、勝てるとは思わなかった。しかし、勝ったのであります」とする発言も紹介されている。ただしこれは、研究生たちの記憶を重ねて復元したものとされ、公式記録には残っていない。
■所長・飯村穣の人物像
演習中の自由な空気については、研究生の証言が残る。蔵相役の今泉兼寛は「模擬内閣の結論を押さえ込もうという素振りが飯村所長になかった」と述べた。首相役の窪田角一も、所長から受けた人生観が大きな力になったと記している。
一方、海相役の志村正は戦後、「資源に乏しい我国が到底強大な米国等を敵にまわせるものではない」と発言した際、陸軍の所員から「出て行け」と一喝されたと回想している。
飯村は同年10月に第5軍司令官へ転出し、後任には海軍の遠藤喜一中将が就いた。
■開戦、そして廃止
研究所は開戦後も「長期戦研究」などを続けた。そして1945年(昭和20年)、勅令第115号により廃止された(4月1日施行)。
戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)では、研究内容が実際の戦局に近かったことから、研究所が開戦に関与したのではないかと追及された。しかし飯村元所長と堀場元所員はこれを否定し、関与は立証されなかった。
■「過大評価」とする見方も
近年は異なる評価も出ている。経済史学者の牧野邦昭(『経済学者たちの日米開戦』2018年)は、研究所がもともと官僚の訓練施設として位置づけられ、研究成果を政策に生かすことは想定されていなかったと指摘する。教育機関だったからこそ自由に議論できた一方、政策には反映されなかったという見方である。
牧野はまた、研究所が作成した資料の中に「長期戦にならざる限り」対米戦に勝算があるとする記述や、対ソ戦に備えた国力整備を提言する答申もあることを示した。そのうえで、1941年8月の演習だけに注目するのは問題だとしている。
さらに当時、日米の国力差は企画院、陸軍省戦備課、秋丸機関などの分析で繰り返し示されていた。国民向けの雑誌などにも数字が公表されており、「必敗」の認識そのものは秘密ではなかったとの指摘もある。
【メモ】総力戦研究所の歩み
年月 出来事
1940年9月30日 総力戦研究所官制施行(勅令第648号)
1940年10月1日 開所式
1941年1月 飯村穣中将が初代所長に就任
1941年4月1日 第1期研究生35人が入所
1941年7月12日 模擬内閣「青国政府」を組閣
1941年8月27〜28日 首相官邸で机上演習の総合研究会
1941年10月 飯村所長が転出
1941年12月8日 日米開戦
1942年・1943年 第2期・第3期研究生が入所
1945年4月1日 廃止(勅令第115号)
【主な参考文献】
森松俊夫『総力戦研究所』(白帝社、1983年)
猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』(世界文化社1983年、文春文庫1986年、中公文庫新版)
牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦』(新潮選書、2018年)
粟屋憲太郎編『総力戦研究所関係資料集』(不二出版、2016〜17年)
飯村豊『総力戦研究所の真実』(筑摩書房、2026年)
極東国際軍事裁判 法廷証第686号・第871号(国立国会図書館所蔵)
掲載前に確認していただきたい点が二つある。
廃止時期:アジア歴史資料センターの用語解説は「1945年3月に廃止」としており、Wikipediaは「4月1日施行の勅令第115号」としている。原稿は施行日に合わせたが、公布日は確認できなかった。
原典で確認していない記述:演習の経過と証言は主にWikipediaと、その出典である森松・猪瀬・粟屋の著作から取った。原典での照合はしていない。特に引用文は、記事にする前に原典と照合することを勧める。
Sources:
アジア歴史資料センター 用語解説「総力戦研究所」
歳川隆雄「総力戦研究所と昭和16年夏の敗戦」(現代ビジネス、2020年8月15日)
中公文庫『昭和16年夏の敗戦(新版)』(紀伊國屋書店)
『総力戦研究所の真実』(筑摩書房)
Wikipedia「総力戦研究所」
目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介
├
├関連論説-その5-総力戦研究所とは何だったのか――NHKドラマ訴訟で再び注目
├関連論説-その4-大東亜戦争と経済と昭和天皇裕仁の役割 夏森龍之介
├関連論説-その3-3,000万人国家日本と生活の有り様の予測 夏森龍之介
├関連論説-その2-インフラ建設が経済成長に寄与した時代の経済学 夏森龍之介
├関連論説-その1-経済からみた日米戦争と国力差、ウクライナ戦争の終着点 執筆 夏森龍之介
├
├
├官僚制度と計量の世界(31) 総力戦研究所の模擬内閣と研究生たちの戦後――企画院総裁役・玉置敬三は計量行政審議会会長になった 2026年10月6日
· 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(30) 矢野宏と井伊浩市がいた新制東京大学の教養学部と学生のようす 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(29) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その5- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(28) ローマ教皇ピウス12世のローズヴェルト批判と戦後のナチスとドイツ国民の区別政策 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(27) 情報戦に弱いため開戦の是非と終戦の時期を判断できなかった日本政府 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(26) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その2-執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(25) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その1-執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(24) 戦争への偽りの瀬踏み 日米の産業力比較 陸軍省戦争経済研究班「秋丸機関」の作業 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(23) 第二次大戦突入と焦土の敗戦(なぜ戦争をし敗れたのか) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(22) 結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(21) 戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(20) 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その4- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(19) 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その3- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(18) 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その2- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(17) 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その1- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(16) 大正15年生れ、花の第1期生、戦後第1回度量衡講習生であった男の人生-その3-
執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(15) 大正15年生れ、花の第1期生、戦後第1回度量衡講習生であった男の人生-その2- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(14) 大正15年生れ、花の第1期生、戦後第1回度量衡講習生であった男の人生-その1- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(13) 昭和24年生れ 計量教習所修了後に千葉県(計量検定所)に奉職した男の公務員人生-その3- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(12) 昭和24年生れ 計量教習所修了後に千葉県(計量検定所)に奉職した男の公務員人生-その2- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(11) 専門学校などを紹介する雑誌で計量教習所のことを知った 入所試験を受けると合格した-その1- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(10) 計量公務員への就職事情 国の機関・計量標準総合センターと地方公務員としての計量行政職員 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(9) 陸士、海兵卒業者には旧帝大入学が認められた 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(8) 東京物理学校50年小史が伝える高野瀬宗則 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(7) 中国における科挙制度の歴史 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(6) 官僚 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(5) 国家総合職と官僚機構 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(4) 経済産業省の施策の一つに計量標準の供給と適正計量の実施の確保がある 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(3) OECDのプリンシパル・アドミニストレーターの古賀茂明 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(2) 計量課に二度目の着任となった高山峰雄計量課長 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(1) 通商産業省秋津修計量課長と芦原駅に降り立つ 執筆 夏森龍之介├
├
├
├総力戦研究所とは何だったのか――NHKドラマ訴訟で再び注目 2026年10月6日
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├計量計測データバンク ニュースの窓 目次
├
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