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官僚制度と計量の世界(31)
Bureaucracy and Metrology-31-

総力戦研究所の模擬内閣と研究生たちの戦後
企画院総裁役・玉置敬三は計量行政審議会会長になった

Keizo Tamaki, Researcher, Institute for Total Warfare

官僚制度と計量の世界(31) 総力戦研究所の模擬内閣と研究生たちの戦後――企画院総裁役・玉置敬三は計量行政審議会会長になった 2026年10月6日 · 執筆 夏森龍之介

目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介

官僚制度と計量の世界(31) 総力戦研究所の模擬内閣と研究生たちの戦後――企画院総裁役・玉置敬三は計量行政審議会会長になった 2026年10月6日 · 執筆 夏森龍之介

官僚制度と計量の世界(31) 総力戦研究所の模擬内閣と研究生たちの戦後――企画院総裁役・玉置敬三は計量行政審議会会長になった 2026年10月6日 · 執筆 夏森龍之介


写真は総力戦研究所



二本の系統が交わるのは天皇のもとだけで、両者を束ねる法的権限を持つ常設の機関はなかった。天皇は補佐に従って裁可するのが慣例で、自ら決めることはしない。内閣は統帥に口を出せず、統帥部は政治と外交の責任を負わない。その結果、「誰も止めず、誰も最終的に決めない」構造が生まれた。

(タイトル)

官僚制度と計量の世界(31) 総力戦研究所の模擬内閣と研究生たちの戦後――企画院総裁役・玉置敬三は計量行政審議会会長になった

· 執筆 夏森龍之介

(本文)

計量行政審議会会長の前歴

 筆者が駆け出しの記者だったころ、計量行政審議会の会長席に座っていたのは玉置敬三であった。東京芝浦電気(東芝)の経営者で、元通商産業事務次官である。その人物が、日米開戦の4か月前に組まれた「模擬内閣」で企画院総裁を演じていたことを、筆者は後年になって知った。

 1941年(昭和16年)夏、総力戦研究所に集められた30代の官僚・軍人・民間人たちは、仮想の内閣をつくって日本の国力を数字で量り、対米戦は長期戦になれば必敗との見通しを出した。本稿では、その研究生たちが戦後どこへ進んだのかをたどる。国力を計量しようとしたエリートたちの軌跡は、本連載が描いてきた計量行政の人物史と、戦争の歴史とをつなぐものである。

総力戦研究所と模擬内閣「青国政府」

 総力戦研究所は1940年(昭和15年)9月、内閣総理大臣直轄の機関として設けられた。第1期研究生は1941年4月1日に入所した35人で、官僚27人(文官22人・武官5人)と民間人8人である。各省庁や企業が推薦した、おおむね35歳までの中堅だった。

 同年7月12日、研究生は仮想の日本政府「青国政府」の閣僚に割り当てられ、模擬内閣を組閣した。兵器の増産、食糧や燃料の自給度、輸送路を数字で検討した結果は「緒戦は優勢でも長期戦になれば物量で劣り、ソ連参戦を迎えて敗れる」というものだった。この結論は8月27、28日、首相官邸で近衛文麿首相や東條英機陸相らに報告された。

模擬内閣の全配役

 1941年7月12日に組閣された模擬内閣の配役を、Wikipedia「総力戦研究所」の記載に従ってすべて示す。各省庁が、自分の省の大臣役に自省の若手を出していることが分かる。年齢はおおむね30代である。

演習上の役職

研究生

当時の所属

内閣総理大臣

窪田角一

産業組合中央金庫参事・調査課長

外務大臣

千葉皓

外務省東亜局

外務次官(兼)

林馨

在上海日本大使館三等書記官

内務大臣

吉岡恵一

内務省地方局

警視総監

福田冽

内務省計画局

大蔵大臣

今泉兼寛

大蔵省主税局

陸軍大臣

白井正辰

陸軍省・陸軍大尉

陸軍次官

岡村峻

陸軍省・陸軍主計少佐

海軍大臣

志村正

海軍省・海軍少佐

海軍次官

武市義雄

海軍省・海軍機関少佐

司法大臣

三淵乾太郎

司法官

文部大臣

丁子尚

文部省宗教局宗教課

文部次官

倉沢剛

東京女子高等師範学校教諭

農林大臣

清井正

農林省官房文書課

商工大臣

野見山勉

商工省総務局

逓信大臣

森巌夫

逓信省官房総務課

鉄道大臣

芥川治

鉄道省運輸局

拓務大臣

石井喬

拓務省拓南局

厚生大臣

三川克巳

厚生省職業局

企画院総裁

玉置敬三

商工省化学課長

情報局総裁

秋葉武雄

同盟通信社編輯局東亜部

対満事務局次長

宮沢次郎

満州国総務庁参事

興亜院総務長官

成田乾一

済南特務機関

朝鮮総督

日笠博雄

朝鮮総督府殖産局

日本銀行総裁

佐々木直

日本銀行資金調整局書記

大政翼賛会副総裁

原種行

東京高等学校教授

企画院総裁役・玉置敬三

 玉置敬三は、模擬内閣で物資動員計画の元締めである企画院総裁を演じた。当時の本職は商工省物資局第二部の化学課長で、実際に物資統制の実務を担っていた。演習の役は、本人の仕事を国家全体の規模に広げたものだったといえる。

 1907年(明治40年)3月2日、和歌山県に生まれた。旧制姫路高等学校を経て1930年に東京帝国大学法学部を卒業し、商工省に入った。戦後は賠償実施局長、電力局長、通商機械局長を経て、1952年から1953年まで通商産業事務次官を務めた。

 1954年に東京芝浦電気に入り、1972年に社長、1976年に会長となった。戦時に電子管や無線などの軍需生産を担い、戦後は重電・原子力を柱とした企業である。統制経済と産業政策を知る官僚が、その政策の受け手である大企業の経営に入った形である。1970年代ごろ、計量行政審議会の会長を務めた。1996年(平成8年)7月8日に89歳で亡くなった。

年

経歴

1930年

東京帝国大学法学部卒業、商工省入省

1941年

総力戦研究所へ出向。模擬内閣で企画院総裁役

1946〜48年

商工省賠償実施局長

1948〜49年

商工省電力局長

1949〜52年

通商産業省通商機械局長

1952〜53年

通商産業事務次官

1954年

東京芝浦電気に入社

1966年

同社副社長

1972年

同社社長

1976年

同社会長

1970年代ごろ

計量行政審議会会長

1978年

勲一等瑞宝章

通産次官として――「通商」から「産業政策」へ

 玉置が事務次官だった1952年は、日本が講和条約の発効で独立を回復した年である。同年8月、通商産業省は組織を改め、各局の名称から「通商」の文字を外した。輸出入の管理を中心とした占領期の体制から、産業ごとに育成を図る「産業政策」重視の体制へ移る転換点だった。その直前まで玉置が率いた通商機械局は、のちの機械情報産業局につながる部局である。

 戦時に化学品の物資統制を担い、戦後に賠償、電力、機械と部局を移った経歴は、日本の工業力を資源と生産の両面から数字で把握する仕事の連続だったといえる。

東芝での26年

 玉置は1953年11月に退官し、翌1954年8月、東京芝浦電気に嘱託として入った。当時の社長は、のちに経団連会長となる石坂泰三である。1955年に取締役、1960年に常務となり、総務部長と人事部長を兼ねた。官界との窓口と社内の組織を司る、元次官らしい役回りである。

 1966年に副社長となり、6年間、土光敏夫社長のもとで経営の立て直しを支えた。1972年8月、土光の後を受けて社長に就いた。社長在任中には第1次石油危機(1973年)が起こっている。1971年から1973年には日本兵器工業会の会長も務めた。防衛生産の業界団体であり、戦時の物資動員と戦後の重電経営とをつなぐもう一つの接点である。1976年に会長、1980年に相談役となった。

 妻の徳子は、大蔵大臣を務めた勝田主計の五女である。

実際の企画院総裁・星野直樹との対比

 演習が行われた1941年夏、実際の企画院総裁は同年4月に就任した陸軍の鈴木貞一であった。その前任で、第2次近衛内閣の企画院総裁を務めたのが星野直樹である。総力戦研究所が1940年10月に開所したとき、所長事務を取り扱ったのも星野だった。ここでは、研究所との縁が深い星野と玉置を比べてみる。

 星野は1892年生まれで、玉置より15歳年長である。1917年に東京帝国大学を卒業して大蔵省に入り、1932年に満州国へ転じた。満州国では財政部次長、国務院総務長官を経て、統制経済の設計者となった。企画院総裁として「経済新体制要綱」の原案を作ったが、財界から「社会主義的」と反発を受け、1941年に辞した。

 その後、東條内閣の内閣書記官長となり、戦後は極東国際軍事裁判でA級戦犯として終身刑を受けた。1958年に釈放され、東京ヒルトンホテル副社長、旭海運社長、ダイヤモンド社会長などを務めた。

星野直樹(実際の総裁)

玉置敬三(演習の総裁)

生年

1892年

1907年

出身官庁

大蔵省

商工省

戦時の立場

企画院総裁、内閣書記官長

商工省の課長

戦後

A級戦犯として終身刑、1958年釈放

通産次官、東芝社長、計量行政審議会会長

没年

1978年

1996年

 同じ統制経済の担い手でも、開戦のときに政策を決める側にいたかどうかで、戦後の運命は大きく分かれた。30代の課長だった玉置の世代は、公職追放をほとんど受けず、そのまま戦後の官庁と企業の中枢を担うことになった。

計量行政審議会とは

 計量行政審議会は、計量制度の重要事項を大臣の諮問に応じて審議する国の審議会である。1952年(昭和27年)3月1日に設けられ、現在も経済産業省のもとで続いている。

 根拠となったのは、1951年(昭和26年)6月7日に公布された計量法(法律第207号)である。明治以来の度量衡法に代わる法律で、第10章「計量行政審議会」(第208条〜第215条)が審議会の設置と組織を定めた。計量法の施行と審議会の発足は同じ日である。

 その後の大きな節目は次のとおりである。

年

出来事

1951年

計量法(旧法)公布。度量衡法から移行

1952年

計量法施行、計量行政審議会が発足

1959年

メートル法の実施。尺貫法・ヤードポンド法の取引上の使用が原則禁止に

1966年

計量法の大改正。電気測定法を統合し、型式承認制度を導入、規制対象の計量器を大幅に削減。土地・建物の計量も含め、メートル法への移行が完了

1992年

計量法を全面改正(新計量法、1993年施行)。国際単位系(SI)への統一、計量標準供給制度(JCSS)の創設

2016〜17年

計量制度の見直しを答申。自動はかりの検定制度導入など

 現行の計量法では第156条を根拠とし、委員は20人以内、任期は2年である。基本部会、計量標準部会、計量士部会の三つの部会を置く。(歴代会長の一覧を入れられれば、玉置の位置づけがはっきりする。)

 玉置が会長を務めた1970年代ごろは、メートル法への移行を終えたあとの時期にあたる。公害問題の高まりを受けて、騒音や振動、濃度など環境計量への対応が計量行政の課題になっていた。

玉置会長のもとで法改正を担った蓑輪善藏

 玉置が会長として座長を務めた審議会のもとで、計量法改正の実務に従事した一人が蓑輪善藏である。本連載の第17回から第20回で、その生涯をたどった人物である。

 蓑輪は1925年(大正14年)、千葉県香取郡佐原町(現在の香取市佐原)に生まれた。1942年に県立佐原中学校を卒業して中央度量衡検定所に入り、勤めながら1945年に東京物理学校を卒業した。佐原の生家は伊能忠敬の旧宅から300メートルほどで、物理学者の天野清が持ってきた募集ポスターが入所のきっかけだった。長く同所に勤め、工業技術院計量研究所第四部長などを歴任し、計量教習所長も務めた。若いころから計量教習の講師を務め、教えを受けた都道府県の計量行政職員は数多い。

 退官後は日本計量士会の専務理事、同会会長、日本計量士学会会長などを務めた。計量行政審議会の委員としても、計量法の改正などで大きな役割を果たした。2025年11月15日、満100歳で亡くなった。

 蓑輪は自らの歩みを「私の履歴書」として日本計量新報に連載した(2002年4月〜2003年6月)。そこには「1966年計量法の大改正」、「姫野瑛一課長の計量法大改正構想」などの章がある。「計量制度に係わって69年」と題したオーラルヒストリーも残されている。

 1976年7月に計量教習所長となった蓑輪は、前任の堀忠良から、審議会の計量管理及び計量士専門部会に置かれた計量器使用事業場分科会の会長を引き継いだ。分科会は計量法における計量管理のあり方や、計量器使用事業場の拡大を検討し、1976年に答申している(「私の履歴書」第50回)。事業場の指定権限をめぐっては、大阪市と名古屋市の委員が「都道府県と同じ立場にある政令指定都市にも権限を」と主張し、千葉県の齊藤勝夫らと活発な議論になったという。玉置が会長だった時期の審議会で、国と地方の計量行政の現場がぶつかり合う姿である。その後、1980年に検定検査専門部会の委員となった。1981年ごろには同部会に大型はかり(分科会長・小泉袈裟勝)、ガソリン量器(和田功)、水道メーター(盛田清隆)などの分科会が設けられ、検定検査の再検討が行われた。蓑輪はガスメーター分科会長となり、有効期間の延長問題で製作者と使用者の思惑がぶつかるなか、性能試験とフィールドテストを経て結論をまとめた(「私の履歴書」第56回)。1985年には計量管理及び計量士専門部会の部会長となった。1992年の計量法全面改正へ至る議論が進んだ時期である。

公害問題と環境計量の取り込み

 玉置会長の時代の審議会を動かしたのは、公害問題である。蓑輪は「私の履歴書」第42回で、その経緯を記している。1971年ごろから公害の規制をめぐる議論が始まり、測定の講習会が増えた。蓑輪は政府委員の補助として衆議院商工委員会に出席したとき、国の研究所の公害測定値が改ざんされた問題が議論されるのを聞いている。それが環境測定器を計量法に取り入れる「キッカケ」だった。

 計量行政審議会には公害関係の専門部会が二つ設けられ、標準物質と測定器の検討が始まった。蓑輪は事務局側の委員として、検定検査規則の原案づくりに当たった。物理と工学を中心に組み立てられてきた計量法を化学の分野まで広げるには、メートル原器やキログラム原器と違って「使えば失くなる標準物質」との整合をとる難しさがあった。この仕事は1974年の計量法改正まで続いた。

 国力を量るのと同じように、公害を量ることもまた、数字が正しくなければ政策が成り立たない仕事であった。測定値の改ざんが制度づくりのきっかけになったという蓑輪の記憶は、そのことをよく示している。

姫野瑛一課長の「計量法大改正構想」

 玉置会長の時代に審議会が取り組んだ大きな仕事が、姫野瑛一計量課長の「計量法大改正構想」である。蓑輪が計量研究所第四部長になったころ(1973年)、姫野が計量課長に就いた。蓑輪は「私の履歴書」でこう書いている。

この姫野さんが計量法大改正を計画、計量行政審議会に諮問しました。

 環境計量が計量法に組み込まれたことを受け、法全体を見直そうとする構想だった。検定制度では、型式承認を検定の前提として位置づける案や、抽取検査の導入が検討された。抽取検査は蓑輪が委員長となって検討する予定だったが、委員会を開くことなく「計量法に馴染まない」として見送られた。

 計量士制度に環境分野を加える議論では、環境を含めて4種とする案などが検討されたが、結局「環境と一般の2種」となった。環境関係を計量法に取り入れた改正は1974年に行われている。

 しかし計量課長が内村俊一に代わると方針が変わり、法律の改正は行わず、政省令の改正にとどめられた。蓑輪は「計量法大改正に随分と振り回され」たと振り返り、法律改正の難しさを次のように述べている。当時は基本単位の定義も法律事項で、メートルの定義を変えるだけでも、タクシーメーターや量目まで、計量法全体を検討し直さなければならなかったという。

 このとき見送られた計量法の全面改正は、約20年後にようやく実現する。1990年8月、通商産業大臣から計量行政審議会長に「新時代の計量行政の在り方について」が諮問され、日本計量士会会長となっていた蓑輪は第二法制臨時専門部会長を務めた。審議会は1991年8月に答申し、新計量法は1992年に公布、1993年11月1日に施行された(連載第20回)。姫野構想に「振り回された」研究所の部長が、全面改正を仕上げる側に立ったことになる。玉置が座長を務めた審議会は、その前哨戦となる議論の場だったのである。

 蓑輪は2011年6月、日本計量史学会の松本榮壽、黒須茂、高松宏之の各氏に半生を語っている。そこには、計量法をつくる現場の様子が生々しく残っている。度量衡法から計量法への改正作業は1949年ごろに始まり、計圧器係長だった蓑輪は圧力計の検定規則の原案を任された。

あの高田忠という計量課長は、仕事のやり方がひどいんですよ。夕方5時ごろ中検に来て夜の夜中の11時とか12時までやるんですから。

 初代計量課長となる高田忠も加わって推敲を重ね、蓑輪は睡眠三時間ほどで昼の検定と夜の検則づくりを続けた。続けて密度計・浮ひょうの基準器検査規則も作った。本人は自らを「後始末屋」と呼んでいる。

 1966年の改正については、次のように振り返っている。

1966(昭和41)年の改正は電気測定法との統合などがあったから本当に大改正ですよ。(中略)計量単位の追加、電力量計などの法定計量器への追加、型式承認制度の導入、そして土地、建物についてメートル法にする法律の制定で完全メートル法化の達成等々、大変な量の改正が行われました。

 計量教習所長(1976〜79年)のころには、環境計量の始まりに合わせて教習の体制を整え、電気の講義と実験を新たに加えた。計量研究所の筑波移転では、第四部長として移転反対を収め、移れない職員の東京都計量検定所への移籍を斡旋した。いずれも、審議会が上から決めた制度を現場で動かす仕事であった。

 本連載は、第1回から第20回で計量行政の現場にいた人々を描き、第21回以降で国力を量ろうとした戦争の時代を描いてきた。玉置と蓑輪が同じ審議会の座長と実務者として重なったことは、この二つの流れが一点で交わったことを示している。

日銀総裁役・佐々木直

 佐々木直は、演習で演じた日本銀行総裁の職に、28年後に実際に就いた。模擬内閣の配役がそのまま現実になった、まれな例である。

 1907年(明治40年)5月19日に生まれ、玉置とは同じ年の生まれである。第一高等学校から東京帝国大学経済学部に進み、1930年に日本銀行に入った。玉置が商工省に入ったのと同じ年である。研究所入所時の職は資金調整局の書記だった。

 戦後は1954年に理事、1962年に副総裁となり、副総裁時代には山一證券の経営危機で特別融資に当たった。1969年12月から1974年12月まで第22代日本銀行総裁を務めた。退任後の1975年には経済同友会代表幹事になった。1988年7月7日に81歳で亡くなった。

生い立ちと戦前の日本銀行

 佐々木直は仙台市で生まれた。父の任地だったためで、日本銀行の資料では出身地を山口県としている。釜山中学校、東京府立四中を経て第一高等学校に進んだ。戦前の日銀は、統制経済のもとで資金の配分を担う機関でもあった。佐々木が研究所へ出されたときの所属が「資金調整局」だったことは、その性格をよく示している。

佐々木直の前後の日本経済――高度成長から安定成長へ

 佐々木が日銀の理事、副総裁として歩んだ時期は、日本経済がもっとも勢いのあった時代である。1960年代の実質成長率は年平均10%前後に達した。1960年に池田勇人内閣が「所得倍増計画」を掲げ、1964年には東海道新幹線が開業して東京オリンピックが開かれた。1965年からは「いざなぎ景気」が続き、1968年には国民総生産(GNP)が西ドイツを抜いて自由世界第2位となった。

 この成長を支えたのが、1ドル=360円の固定相場と、日銀の信用管理である。日銀は公定歩合と「窓口指導」(銀行ごとの貸出増加額の指導)を使い、景気が過熱して輸入が増えると引き締め、国際収支が改善すると緩めた。「国際収支の天井」を見ながら景気を調節する、分かりやすい時代だった。給料は毎年上がり、家電や自動車が家庭に入った。多くの人にとって、おおむね良い時代であったといえる。

 佐々木が総裁に就いた1969年末、日本はすでに大幅な貿易黒字国になっていた。「国際収支の天井」が消え、代わって「円切り上げ」の圧力が新しい制約になったのである。

総裁の5年――固定相場の終わりと狂乱物価

 佐々木の総裁在任(1969年12月〜1974年12月)は、戦後日本経済が最も大きく揺れた5年間と重なる。

年月

出来事

1971年8月

ニクソン・ショック。米国がドルと金の交換を停止

1971年12月

スミソニアン合意。1ドル=360円から308円へ切り上げ

1972年6月

公定歩合を引き下げ。円高不況への対応

1973年2月

円が変動相場制に移行

1973年10月

第1次石油危機

1973年12月

公定歩合を9%に引き上げ

1974年

消費者物価の上昇率が20%を超える「狂乱物価」。戦後初のマイナス成長

 円高を恐れた金融緩和と田中角栄内閣の日本列島改造論が重なり、過剰な資金が地価と物価を押し上げた。引き締めへの転換が遅れたという批判は、佐々木を含む当時の日銀に向けられている。西野智彦『ドキュメント 通貨失政』はこの時期の政策決定を詳しく描いている。

 1941年に「日本の国力では長期戦に耐えられない」と数字で示した人物が、30年後には物価と通貨という、もう一つの「計量」の難題に向き合うことになったのである。

佐々木の日本経済への処方

 佐々木日銀の対応は、大きく三つの局面に分けられる。

  1. 緩和への転換(1970〜71年):前総裁時代の1969年9月に始めた引き締めを、1970年10月に緩和へ転じた。景気の減速が理由だった。1971年に入っても公定歩合の引き下げを重ね、8月にはニクソン・ショックを迎えた。
  2. 円高対策としての大幅緩和(1971〜72年):スミソニアン合意で円が308円に切り上げられると、さらに下げ、1972年6月に公定歩合を当時として戦後最低の4.25%とした。「これ以上の円切り上げを防ぐ」ことが政府・財界の強い要請だった。そこへ田中角栄内閣の日本列島改造論が重なり、マネーサプライは2桁の伸びが続いた。いわゆる「過剰流動性」である。
  3. 引き締めと「狂乱物価」(1973〜74年):1973年に入ると預金準備率を引き上げ、4月から12月までに公定歩合を五度引き上げて5.0%から9.0%とした。窓口指導も強めた。しかしそこへ第1次石油危機が重なり、1974年の消費者物価は23%上昇し、実質成長率は戦後初のマイナスとなった。

指標

1970年

1973年

1974年

実質成長率

約10%

約8%

約△1%

卸売物価上昇率

約3%

約16%

約28%

 後の評価では、円高を恐れて緩和を長く続け、引き締めに転じるのが遅れたことが「通貨失政」として批判されている。一方で、総裁の判断だけでなく、円切り上げを嫌う政府・財界の空気や、日銀の独立性が弱かった当時の制度も背景にあった。佐々木は1974年12月に退任し、後任の森永貞一郎のもとで日本は安定成長の時代に入っていく。

 佐々木の経験した狂乱物価は、日銀に「物価の安定こそが第一の任務」という教訓を残した。その後1998年の新日本銀行法で日銀の独立性が定められたことにも、この時期の反省が生きている。

その他の研究生たちの戦後

 玉置や佐々木のほかにも、研究生の多くは戦後の官界・司法・財界・学界で要職に就いた。確認できた例を挙げる。

演習上の役職

研究生(当時の所属)

戦後の主な経歴

外務大臣

千葉皓(外務省東亜局)

外務省欧米局長、ブラジル大使、イラン大使

司法大臣

三淵乾太郎(司法官)

最高裁判所調査官、甲府地裁・浦和地裁所長

陸軍大臣

白井正辰(陸軍大尉)

厚生省に入省

対満事務局次長

宮沢次郎(満州国総務庁)

トッパン・ムーア会長

興亜院総務長官

成田乾一(済南特務機関)

日放社長

大政翼賛会副総裁

原種行(東京高等学校教授)

岡山大学教授

 司法大臣役の三淵乾太郎は、初代最高裁判所長官・三淵忠彦の長男である。日本初の女性裁判官の一人、三淵嘉子の夫でもある。他の研究生の戦後については、森松俊夫『総力戦研究所』などでの確認を要する。

国力を計量した人々と計量行政

 模擬内閣の研究生たちは、戦争の行方を正しく量った。しかしその数字は、開戦を止める力にはならなかった。本連載の第24回で取り上げた秋丸機関も、日米の経済力を比較したものの、政策の決定は別のところで下された。正しく測ることと、その結果に従って判断することは別の問題である。

秋丸機関の学者たちの戦後

 国力を量ったのは総力戦研究所だけではない。陸軍省戦争経済研究班(秋丸機関)に集められた経済学者たちも、戦後の日本経済の設計に深く関わった。

 有沢広巳(1896〜1988)は、1938年の人民戦線事件で起訴され、東京帝国大学を休職中だった。その有沢が秋丸機関で英米の経済抗戦力を分析した。戦後は石炭と鉄鋼に資材を集中する「傾斜生産方式」を提唱し、復興の道筋をつけた。のちに原子力委員会委員長代理、日本学士院院長を務めている。有沢自身、秋丸機関で再生産表式や産業連関表に触れたことが傾斜生産方式につながったと述べている。

 中山伊知郎(1898〜1980)も秋丸機関に加わった。戦後は一橋大学の初代学長、1950年からは中央労働委員会会長として労使の調停に当たった。1959年に発表した「賃金二倍論」は、池田勇人内閣の「所得倍増計画」の先駆けとされる。

 秋丸機関の報告も模擬内閣の結論も、開戦を止めることはできなかった。しかしそこで養われた「国力を数字でつかむ」力は、戦後の復興と成長の設計に生かされたのである。

 戦後、同じ人々が復興と高度成長の司令塔に入った。玉置は通産次官として産業政策を担い、佐々木は日銀総裁として金融を担った。統制経済で物資と資金を数字で管理した経験は、戦後の計画的な経済運営に引き継がれた。

 玉置が計量行政審議会の会長に就いたことも、この流れの上にある。当時の計量制度は、工業標準や産業政策と一体で動いていた。第1回の秋津修計量課長から第20回の蓑輪善藏まで、本連載が描いてきた計量行政の現場の上には、かつて国力そのものを計量しようとした世代がいたのである。

 玉置敬三計量行政審議会会長は、通産次官であったし、後に東芝の社長、会長を歴任した大物会長として、計量行政審議会委員に受け止められていた。計量行政にも明るく、当然ながら通商行政ではこれ以上の知識を備えている人はいない。大企業で業績を上げているから、上のことに加えて箔が付いたということができる。座長を務める会長の一言で方向が変わることが有り得た。審議会に対して委員は慎重であると同時に、出される結論には自信を持つことになる。環境計測を計量法に取り込むという大事業を推進するときの計量行政審議会の会長として玉置敬三は適任であった。以後、これほどの適任者は何人もいない。

参考文献

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官僚制度と計量の世界(31)総力戦研究所の模擬内閣と研究生たちの戦後――企画院総裁役・玉置敬三は計量行政審議会会長になった 執筆 夏森龍之介


計量行政審議会会長の前歴

 筆者が駆け出しの記者だったころ、計量行政審議会の会長席に座っていたのは玉置敬三であった。東京芝浦電気(東芝)の経営者で、元通商産業事務次官である。その人物が、 日米開戦の4か月前に組まれた「模擬内閣」で企画院総裁を演じていたことを、筆者は後年になって知った。

 1941年(昭和16年)夏、総力戦研究所に集められた30代の官僚・軍人・民間人たちは、仮想の内閣をつくって日本の国力を数字で量り、対米戦は長期戦になれば必敗との見通しを出した。本稿では、その研究生たちが戦後どこへ進んだのかをたどる。国力を計量しようとしたエリートたちの軌跡は、本連載が描いてきた計量行政の人物史と、戦争の歴史とをつなぐものである。

総力戦研究所と模擬内閣「青国政府」

 総力戦研究所は1940年(昭和15年)9月、内閣総理大臣直轄の機関として設けられた。第1期研究生は1941年4月1日に入所した35人で、官僚27人(文官22人・武官5人)と民間人8人である。各省庁や企業が推薦した、おおむね35歳までの中堅だった。

 同年7月12日、研究生は仮想の日本政府「青国政府」の閣僚に割り当てられ、模擬内閣を組閣した。兵器の増産、食糧や燃料の自給度、輸送路を数字で検討した結果は「緒戦は優勢でも長期戦になれば物量で劣り、ソ連参戦を迎えて敗れる」というものだった。この結論は8月27、28日、首相官邸で近衛文麿首相や東條英機陸相らに報告された。

模擬内閣の全配役

 1941年7月12日に組閣された模擬内閣の配役を、Wikipedia「総力戦研究所」の記載に従ってすべて示す。各省庁が、自分の省の大臣役に自省の若手を出していることが分かる。年齢はおおむね30代である。

演習上の役職

研究生
当時の所属
内閣総理大臣
窪田角一
産業組合中央金庫参事・調査課長
外務大臣
千葉皓
外務省東亜局
外務次官(兼)
林馨
在上海日本大使館三等書記官
内務大臣
吉岡恵一
内務省地方局
警視総監
福田冽
内務省計画局
大蔵大臣
今泉兼寛
大蔵省主税局
陸軍大臣
白井正辰
陸軍省・陸軍大尉
陸軍次官
岡村峻
陸軍省・陸軍主計少佐
海軍大臣
志村正
海軍省・海軍少佐
海軍次官
武市義雄
海軍省・海軍機関少佐
司法大臣
三淵乾太郎
司法官
文部大臣
丁子尚
文部省宗教局宗教課
文部次官
倉沢剛
東京女子高等師範学校教諭
農林大臣
清井正
農林省官房文書課
商工大臣
野見山勉
商工省総務局
逓信大臣
森巌夫
逓信省官房総務課
鉄道大臣
芥川治
鉄道省運輸局
拓務大臣
石井喬
拓務省拓南局
厚生大臣
三川克巳
厚生省職業局
企画院総裁
玉置敬三
商工省化学課長
情報局総裁
秋葉武雄
同盟通信社編輯局東亜部
対満事務局次長
宮沢次郎
満州国総務庁参事
興亜院総務長官
成田乾一
済南特務機関
朝鮮総督
日笠博雄
朝鮮総督府殖産局
日本銀行総裁
佐々木直
日本銀行資金調整局書記
大政翼賛会副総裁
原種行
東京高等学校教授
企画院総裁役・玉置敬三

 玉置敬三は、模擬内閣で物資動員計画の元締めである企画院総裁を演じた。当時の本職は商工省物資局第二部の化学課長で、実際に物資統制の実務を担っていた。演習の役は、本人の仕事を国家全体の規模に広げたものだったといえる。

 1907年(明治40年)3月2日、和歌山県に生まれた。旧制姫路高等学校を経て1930年に東京帝国大学法学部を卒業し、商工省に入った。戦後は賠償実施局長、電力局長、通商機械局長を経て、1952年から1953年まで通商産業事務次官を務めた。

 1954年に東京芝浦電気に入り、1972年に社長、1976年に会長となった。戦時に電子管や無線などの軍需生産を担い、戦後は重電・原子力を柱とした企業である。統制経済と産業政策を知る官僚が、その政策の受け手である大企業の経営に入った形である。1970年代ごろ、計量行政審議会の会長を務めた。1996年(平成8年)7月8日に89歳で亡くなった。

年
経歴
1930年
東京帝国大学法学部卒業、商工省入省
1941年
総力戦研究所へ出向。模擬内閣で企画院総裁役
1946〜48年
商工省賠償実施局長
1948〜49年
商工省電力局長
1949〜52年
通商産業省通商機械局長
1952〜53年
通商産業事務次官
1954年
東京芝浦電気に入社
1966年
同社副社長
1972年
同社社長
1976年
同社会長
1970年代ごろ
計量行政審議会会長
1978年
勲一等瑞宝章

通産次官として――「通商」から「産業政策」へ

 玉置が事務次官だった1952年は、日本が講和条約の発効で独立を回復した年である。同年8月、通商産業省は組織を改め、各局の名称から「通商」の文字を外した。輸出入の管理を中心とした占領期の体制から、産業ごとに育成を図る「産業政策」重視の体制へ移る転換点だった。その直前まで玉置が率いた通商機械局は、のちの機械情報産業局につながる部局である。

 戦時に化学品の物資統制を担い、戦後に賠償、電力、機械と部局を移った経歴は、日本の工業力を資源と生産の両面から数字で把握する仕事の連続だったといえる。

東芝での26年

 玉置は1953年11月に退官し、翌1954年8月、東京芝浦電気に嘱託として入った。当時の社長は、のちに経団連会長となる石坂泰三である。1955年に取締役、1960年に常務となり、総務部長と人事部長を兼ねた。官界との窓口と社内の組織を司る、元次官らしい役回りである。

 1966年に副社長となり、6年間、土光敏夫社長のもとで経営の立て直しを支えた。1972年8月、土光の後を受けて社長に就いた。社長在任中には第1次石油危機(1973年)が起こっている。1971年から1973年には日本兵器工業会の会長も務めた。防衛生産の業界団体であり、戦時の物資動員と戦後の重電経営とをつなぐもう一つの接点である。1976年に会長、1980年に相談役となった。

 妻の徳子は、大蔵大臣を務めた勝田主計の五女である。

実際の企画院総裁・星野直樹との対比

 演習が行われた1941年夏、実際の企画院総裁は同年4月に就任した陸軍の鈴木貞一であった。その前任で、第2次近衛内閣の企画院総裁を務めたのが星野直樹である。総力戦研究所が1940年10月に開所したとき、所長事務を取り扱ったのも星野だった。ここでは、研究所との縁が深い星野と玉置を比べてみる。

 星野は1892年生まれで、玉置より15歳年長である。1917年に東京帝国大学を卒業して大蔵省に入り、1932年に満州国へ転じた。満州国では財政部次長、国務院総務長官を経て、統制経済の設計者となった。企画院総裁として「経済新体制要綱」の原案を作ったが、財界から「社会主義的」と反発を受け、1941年に辞した。

 その後、東條内閣の内閣書記官長となり、戦後は極東国際軍事裁判でA級戦犯として終身刑を受けた。1958年に釈放され、東京ヒルトンホテル副社長、旭海運社長、ダイヤモンド社会長などを務めた。

星野直樹(実際の総裁)
玉置敬三(演習の総裁)
生年
1892年
1907年
出身官庁
大蔵省
商工省
戦時の立場
企画院総裁、内閣書記官長
商工省の課長
戦後
A級戦犯として終身刑、1958年釈放


通産次官、東芝社長、計量行政審議会会長

没年
1978年
1996年

 同じ統制経済の担い手でも、開戦のときに政策を決める側にいたかどうかで、戦後の運命は大きく分かれた。30代の課長だった玉置の世代は、公職追放をほとんど受けず、そのまま戦後の官庁と企業の中枢を担うことになった。

計量行政審議会とは

 計量行政審議会は、計量制度の重要事項を大臣の諮問に応じて審議する国の審議会である。1952年(昭和27年)3月1日に設けられ、現在も経済産業省のもとで続いている。

 根拠となったのは、1951年(昭和26年)6月7日に公布された計量法(法律第207号)である。明治以来の度量衡法に代わる法律で、第10章「計量行政審議会」(第208条〜第215条)が審議会の設置と組織を定めた。計量法の施行と審議会の発足は同じ日である。
その後の大きな節目は次のとおりである。

年
出来事
1951年
計量法(旧法)公布。度量衡法から移行
1952年
計量法施行、計量行政審議会が発足
1959年
メートル法の実施。尺貫法・ヤードポンド法の取引上の使用が原則禁止に
1966年
計量法の大改正。電気測定法を統合し、型式承認制度を導入、規制対象の計量器を大幅に削減。土地・建物の計量も含め、メートル法への移行が完了
1992年
計量法を全面改正(新計量法、1993年施行)。国際単位系(SI)への統一、計量標準供給制度(JCSS)の創設
2016〜17年
計量制度の見直しを答申。自動はかりの検定制度導入など
現行の計量法では第156条を根拠とし、委員は20人以内、任期は2年である。基本部会、計量標準部会、計量士部会の三つの部会を置く。(歴代会長の一覧を入れられれば、玉置の位置づけがはっきりする。)

 玉置が会長を務めた1970年代ごろは、メートル法への移行を終えたあとの時期にあたる。公害問題の高まりを受けて、騒音や振動、濃度など環境計量への対応が計量行政の課題になっていた。(玉置会長のもとでの具体的な答申とその年月を、当時の紙面で補っていただきたい。)

玉置会長のもとで法改正を担った蓑輪善藏

 玉置が会長として座長を務めた審議会のもとで、計量法改正の実務に従事した一人が蓑輪善藏である。本連載の第17回から第20回に登場。

 蓑輪は1925年(大正14年)、千葉県香取郡佐原町(現在の香取市佐原)に生まれた。1942年に県立佐原中学校を卒業して中央度量衡検定所に入り、勤めながら1945年に東京物理学校を卒業した。佐原の生家は伊能忠敬の旧宅から300メートルほどで、物理学者の天野清が持ってきた募集ポスターが入所のきっかけだった。長く同所に勤め、工業技術院計量研究所第四部長などを歴任し、計量教習所長も務めた。若いころから計量教習の講師を務め、教えを受けた都道府県の計量行政職員は数多い。

 退官後は日本計量士会の専務理事、同会会長、日本計量士学会会長などを務めた。計量行政審議会の委員としても、計量法の改正などで大きな役割を果たした。2025年11月15日、満100歳で亡くなった。

 蓑輪は自らの歩みを「私の履歴書」として日本計量新報に連載した(2002年4月〜2003年6月)。そこには「1966年計量法の大改正」、「姫野瑛一課長の計量法大改正構想」などの章がある。「計量制度に係わって69年」と題したオーラルヒストリーも残されている。

 1976年7月に計量教習所長となった蓑輪は、前任の堀忠良から、審議会の計量管理及び計量士専門部会に置かれた計量器使用事業場分科会の会長を引き継いだ。分科会は計量法における計量管理のあり方や、計量器使用事業場の拡大を検討し、1976年に答申している(「私の履歴書」第50回)。事業場の指定権限をめぐっては、大阪市と名古屋市の委員が「都道府県と同じ立場にある政令指定都市にも権限を」と主張し、千葉県の齊藤勝夫らと活発な議論になったという。玉置が会長だった時期の審議会で、国と地方の計量行政の現場がぶつかり合う姿である。その後、1980年に検定検査専門部会の委員となった。1981年ごろには同部会に大型はかり(分科会長・小泉袈裟勝)、ガソリン量器(和田功)、水道メーター(盛田清隆)などの分科会が設けられ、検定検査の再検討が行われた。蓑輪はガスメーター分科会長となり、有効期間の延長問題で製作者と使用者の思惑がぶつかるなか、性能試験とフィールドテストを経て結論をまとめた(「私の履歴書」第56回)。1985年には計量管理及び計量士専門部会の部会長となった。1992年の計量法全面改正へ至る議論が進んだ時期である。

公害問題と環境計量の取り込み

 玉置会長の時代の審議会を動かしたのは、公害問題である。蓑輪は「私の履歴書」第42回で、その経緯を記している。1971年ごろから公害の規制をめぐる議論が始まり、測定の講習会が増えた。蓑輪は政府委員の補助として衆議院商工委員会に出席したとき、国の研究所の公害測定値が改ざんされた問題が議論されるのを聞いている。それが環境測定器を計量法に取り入れる「キッカケ」だった。

 計量行政審議会には公害関係の専門部会が二つ設けられ、標準物質と測定器の検討が始まった。蓑輪は事務局側の委員として、検定検査規則の原案づくりに当たった。物理と工学を中心に組み立てられてきた計量法を化学の分野まで広げるには、メートル原器やキログラム原器と違って「使えば失くなる標準物質」との整合をとる難しさがあった。この仕事は1974年の計量法改正まで続いた。

 国力を量るのと同じように、公害を量ることもまた、数字が正しくなければ政策が成り立たない仕事であった。測定値の改ざんが制度づくりのきっかけになったという蓑輪の記憶は、そのことをよく示している。

姫野瑛一課長の「計量法大改正構想」

 玉置会長の時代に審議会が取り組んだ大きな仕事が、姫野瑛一計量課長の「計量法大改正構想」である。蓑輪が計量研究所第四部長になったころ(1973年)、姫野が計量課長に就いた。蓑輪は「私の履歴書」でこう書いている。

 この姫野さんが計量法大改正を計画、計量行政審議会に諮問しました。

 環境計量が計量法に組み込まれたことを受け、法全体を見直そうとする構想だった。検定制度では、型式承認を検定の前提として位置づける案や、抽取検査の導入が検討された。抽取検査は蓑輪が委員長となって検討する予定だったが、委員会を開くことなく「計量法に馴染まない」として見送られた。

 計量士制度に環境分野を加える議論では、環境を含めて4種とする案などが検討されたが、結局「環境と一般の2種」となった。環境関係を計量法に取り入れた改正は1974年に行われている。

 しかし計量課長が内村俊一に代わると方針が変わり、法律の改正は行わず、政省令の改正にとどめられた。蓑輪は「計量法大改正に随分と振り回され」たと振り返り、法律改正の難しさを次のように述べている。当時は基本単位の定義も法律事項で、メートルの定義を変えるだけでも、タクシーメーターや量目まで、計量法全体を検討し直さなければならなかったという。

 このとき見送られた計量法の全面改正は、約20年後にようやく実現する。1990年8月、通商産業大臣から計量行政審議会長に「新時代の計量行政の在り方について」が諮問され、日本計量士会会長となっていた蓑輪は第二法制臨時専門部会長を務めた。審議会は1991年8月に答申し、新計量法は1992年に公布、1993年11月1日に施行された(連載第20回)。姫野構想に「振り回された」研究所の部長が、全面改正を仕上げる側に立ったことになる。玉置が座長を務めた審議会は、その前哨戦となる議論の場だったのである。

 蓑輪は2011年6月、日本計量史学会の松本榮壽、黒須茂、高松宏之の各氏に半生を語っている。そこには、計量法をつくる現場の様子が生々しく残っている。度量衡法から計量法への改正作業は1949年ごろに始まり、計圧器係長だった蓑輪は圧力計の検定規則の原案を任された。

 あの高田忠という計量課長は、仕事のやり方がひどいんですよ。夕方5時ごろ中検に来て夜の夜中の11時とか12時までやるんですから。

 初代計量課長となる高田忠も加わって推敲を重ね、蓑輪は睡眠三時間ほどで昼の検定と夜の検則づくりを続けた。続けて密度計・浮ひょうの基準器検査規則も作った。本人は自らを「後始末屋」と呼んでいる。

1966年の改正については、次のように振り返っている。

1966(昭和41)年の改正は電気測定法との統合などがあったから本当に大改正ですよ。(中略)計量単位の追加、電力量計などの法定計量器への追加、型式承認制度の導入、そして土地、建物についてメートル法にする法律の制定で完全メートル法化の達成等々、大変な量の改正が行われました。

 計量教習所長(1976〜79年)のころには、環境計量の始まりに合わせて教習の体制を整え、電気の講義と実験を新たに加えた。計量研究所の筑波移転では、第四部長として移転反対を収め、移れない職員の東京都計量検定所への移籍を斡旋した。いずれも、審議会が上から決めた制度を現場で動かす仕事であった。

 本連載は、第1回から第20回で計量行政の現場にいた人々を描き、第21回以降で国力を量ろうとした戦争の時代を描いてきた。玉置と蓑輪が同じ審議会の座長と実務者として重なったことは、この二つの流れが一点で交わったことを示している。

日銀総裁役・佐々木直

 佐々木直は、演習で演じた日本銀行総裁の職に、28年後に実際に就いた。模擬内閣の配役がそのまま現実になった、まれな例である。

 1907年(明治40年)5月19日に生まれ、玉置とは同じ年の生まれである。第一高等学校から東京帝国大学経済学部に進み、1930年に日本銀行に入った。玉置が商工省に入ったのと同じ年である。研究所入所時の職は資金調整局の書記だった。

 戦後は1954年に理事、1962年に副総裁となり、副総裁時代には山一證券の経営危機で特別融資に当たった。1969年12月から1974年12月まで第22代日本銀行総裁を務めた。退任後の1975年には経済同友会代表幹事になった。1988年7月7日に81歳で亡くなった。

生い立ちと戦前の日本銀行

 佐々木は仙台市で生まれた。父の任地だったためで、日本銀行の資料では出身地を山口県としている。釜山中学校、東京府立四中を経て第一高等学校に進んだ。戦前の日銀は、統制経済のもとで資金の配分を担う機関でもあった。佐々木が研究所へ出されたときの所属が「資金調整局」だったことは、その性格をよく示している。

佐々木の前後の日本経済――高度成長から安定成長へ

 佐々木が日銀の理事、副総裁として歩んだ時期は、日本経済がもっとも勢いのあった時代である。1960年代の実質成長率は年平均10%前後に達した。1960年に池田勇人内閣が「所得倍増計画」を掲げ、1964年には東海道新幹線が開業して東京オリンピックが開かれた。1965年からは「いざなぎ景気」が続き、1968年には国民総生産(GNP)が西ドイツを抜いて自由世界第2位となった。

 この成長を支えたのが、1ドル=360円の固定相場と、日銀の信用管理である。日銀は公定歩合と「窓口指導」(銀行ごとの貸出増加額の指導)を使い、景気が過熱して輸入が増えると引き締め、国際収支が改善すると緩めた。「国際収支の天井」を見ながら景気を調節する、分かりやすい時代だった。給料は毎年上がり、家電や自動車が家庭に入った。多くの人にとって、おおむね良い時代であったといえる。

 佐々木が総裁に就いた1969年末、日本はすでに大幅な貿易黒字国になっていた。「国際収支の天井」が消え、代わって「円切り上げ」の圧力が新しい制約になったのである。

総裁の5年――固定相場の終わりと狂乱物価

 佐々木の総裁在任(1969年12月〜1974年12月)は、戦後日本経済が最も大きく揺れた5年間と重なる。

年月
出来事
1971年8月
ニクソン・ショック。米国がドルと金の交換を停止
1971年12月
スミソニアン合意。1ドル=360円から308円へ切り上げ
1972年6月
公定歩合を引き下げ。円高不況への対応
1973年2月
円が変動相場制に移行
1973年10月
第1次石油危機
1973年12月
公定歩合を9%に引き上げ
1974年
消費者物価の上昇率が20%を超える「狂乱物価」。戦後初のマイナス成長

 円高を恐れた金融緩和と田中角栄内閣の日本列島改造論が重なり、過剰な資金が地価と物価を押し上げた。引き締めへの転換が遅れたという批判は、佐々木を含む当時の日銀に向けられている。西野智彦『ドキュメント 通貨失政』はこの時期の政策決定を詳しく描いている。

 1941年に「日本の国力では長期戦に耐えられない」と数字で示した人物が、30年後には物価と通貨という、もう一つの「計量」の難題に向き合うことになったのである。

佐々木直の日本経済への処方

佐々木日銀の対応は、大きく三つの局面に分けられる。

1. 緩和への転換(1970〜71年):前総裁時代の1969年9月に始めた引き締めを、1970年10月に緩和へ転じた。景気の減速が理由だった。1971年に入っても公定歩合の引き下げを重ね、8月にはニクソン・ショックを迎えた。

2. 円高対策としての大幅緩和(1971〜72年):スミソニアン合意で円が308円に切り上げられると、さらに下げ、1972年6月に公定歩合を当時として戦後最低の4.25%とした。「これ以上の円切り上げを防ぐ」ことが政府・財界の強い要請だった。そこへ田中角栄内閣の日本列島改造論が重なり、マネーサプライは2桁の伸びが続いた。いわゆる「過剰流動性」である。

3. 引き締めと「狂乱物価」(1973〜74年):1973年に入ると預金準備率を引き上げ、4月から12月までに公定歩合を五度引き上げて5.0%から9.0%とした。窓口指導も強めた。しかしそこへ第1次石油危機が重なり、1974年の消費者物価は23%上昇し、実質成長率は戦後初のマイナスとなった。

指標
1970年
1973年
1974年
実質成長率
約10%
約8%
約△1%
卸売物価上昇率
約3%
約16%
約28%

 後の評価では、円高を恐れて緩和を長く続け、引き締めに転じるのが遅れたことが「通貨失政」として批判されている。一方で、総裁の判断だけでなく、円切り上げを嫌う政府・財界の空気や、日銀の独立性が弱かった当時の制度も背景にあった。佐々木は1974年12月に退任し、後任の森永貞一郎のもとで日本は安定成長の時代に入っていく。

 佐々木の経験した狂乱物価は、日銀に「物価の安定こそが第一の任務」という教訓を残した。その後1998年の新日本銀行法で日銀の独立性が定められたことにも、この時期の反省が生きている。

その他の研究生たちの戦後

 玉置や佐々木のほかにも、研究生の多くは戦後の官界・司法・財界・学界で要職に就いた。確認できた例を挙げる。

演習上の役職
研究生(当時の所属)
戦後の主な経歴
外務大臣
千葉皓(外務省東亜局)
外務省欧米局長、ブラジル大使、イラン大使
司法大臣
三淵乾太郎(司法官)
最高裁判所調査官、甲府地裁・浦和地裁所長
陸軍大臣
白井正辰(陸軍大尉)
厚生省に入省
対満事務局次長
宮沢次郎(満州国総務庁)
トッパン・ムーア会長
興亜院総務長官
成田乾一(済南特務機関)
日放社長
大政翼賛会副総裁
原種行(東京高等学校教授)
岡山大学教授
司法大臣役の三淵乾太郎は、初代最高裁判所長官・三淵忠彦の長男である。日本初の女性裁判官の一人、三淵嘉子の夫でもある。他の研究生の戦後については、森松俊夫『総力戦研究所』などでの確認を要する。

国力を計量した人々と計量行政

 模擬内閣の研究生たちは、戦争の行方を正しく量った。しかしその数字は、開戦を止める力にはならなかった。本連載の第24回で取り上げた秋丸機関も、日米の経済力を比較したものの、政策の決定は別のところで下された。正しく測ることと、その結果に従って判断することは別の問題である。

秋丸機関の学者たちの戦後

 国力を量ったのは総力戦研究所だけではない。陸軍省戦争経済研究班(秋丸機関)に集められた経済学者たちも、戦後の日本経済の設計に深く関わった。

 有沢広巳(1896〜1988)は、1938年の人民戦線事件で起訴され、東京帝国大学を休職中だった。その有沢が秋丸機関で英米の経済抗戦力を分析した。戦後は石炭と鉄鋼に資材を集中する「傾斜生産方式」を提唱し、復興の道筋をつけた。のちに原子力委員会委員長代理、日本学士院院長を務めている。有沢自身、秋丸機関で再生産表式や産業連関表に触れたことが傾斜生産方式につながったと述べている。

 中山伊知郎(1898〜1980)も秋丸機関に加わった。戦後は一橋大学の初代学長、1950年からは中央労働委員会会長として労使の調停に当たった。1959年に発表した「賃金二倍論」は、池田勇人内閣の「所得倍増計画」の先駆けとされる。

 秋丸機関の報告も模擬内閣の結論も、開戦を止めることはできなかった。しかしそこで養われた「国力を数字でつかむ」力は、戦後の復興と成長の設計に生かされたのである。
戦後、同じ人々が復興と高度成長の司令塔に入った。玉置は通産次官として産業政策を担い、佐々木は日銀総裁として金融を担った。統制経済で物資と資金を数字で管理した経験は、戦後の計画的な経済運営に引き継がれた。

 玉置が計量行政審議会の会長に就いたことも、この流れの上にある。当時の計量制度は、工業標準や産業政策と一体で動いていた。第1回の秋津修計量課長から第20回の蓑輪善藏まで、本連載が描いてきた計量行政の現場の上には、かつて国力そのものを計量しようとした世代がいたのである。

 玉置敬三計量行政審議会会長は、通産次官であったし、後に東芝の社長、会長を歴任した大物会長として、計量行政審議会委員に受け止められていた。計量行政にも明るく、当然ながら通商行政ではこれ以上の知識を備えている人はいない。大企業で業績を上げているから、上のことに加えて箔が付いたということができる。座長を務める会長の一言で方向が変わることが有り得た。審議会に対して委員は慎重であると同時に、出される結論には自信を持つことになる。環境計測を計量法に取り込むという大事業を推進するときの計量行政審議会の会長として玉置敬三は適任であった。以後、これほどの適任者は何人もいない。

参考文献
• 森松俊夫『総力戦研究所』(白帝社、1983年)
• 猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』(世界文化社、1983年)
• 牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦』(新潮選書、2018年)
• 西野智彦『ドキュメント 通貨失政――戦後最悪のインフレはなぜ起きたか』
• 計量法(昭和26年法律第207号)
• 蓑輪善藏「私の履歴書」(日本計量新報、2002年4月7日付第2440号〜2003年6月1日付第2493号)
• 松本榮壽・黒須茂・高松宏之「オーラルヒストリー 蓑輪善藏氏インタビュー『計量制度に係わって69年』」『計量史研究』第34巻第1号(通巻40号)、2012年、日本計量史学会。収録2011年6月3日
出典(ウェブ、追加分)
• Wikipedia「玉置敬三」
• 日本銀行「歴代総裁:第22代 佐々木直」
• 内閣官房「審議会等の概要:計量行政審議会」
• 計量法(昭和26年)法令データベース(名古屋大学)
• nippon.com「ニクソン・ショック」関連記事
• Wikipedia「星野直樹」
• Wikipedia「有沢広巳」
• Wikipedia「中山伊知郎」
• 牧野邦昭「陸軍秋丸機関による経済研究の結論」(経済学史学会報告)
• 日本銀行「基準割引率および基準貸付利率の推移」
• 「ニクソン・ショックと大インフレーション:日本銀行の金融政策(1970年~1974年)」(明治大学社会科学研究所紀要)
• 内閣府経済社会総合研究所「二度の石油危機と日本経済の動向」
出典(ウェブ)
• Wikipedia「総力戦研究所」
• 玉置敬三(Weblio辞書)
• 東芝歴代トップ:玉置敬三(the-shashi.com)
• 玉置家の家系図(keibatsugaku.com)
• Wikipedia「佐々木直」
• Wikipedia「三淵乾太郎」

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[資料]

目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介
├
├
├関連論説-その5-総力戦研究所とは何だったのか――NHKドラマ訴訟で再び注目
├関連論説-その4-大東亜戦争と経済と昭和天皇裕仁の役割 夏森龍之介
├関連論説-その3-3,000万人国家日本と生活の有り様の予測 夏森龍之介
├関連論説-その2-インフラ建設が経済成長に寄与した時代の経済学 夏森龍之介
├関連論説-その1-経済からみた日米戦争と国力差、ウクライナ戦争の終着点 執筆 夏森龍之介
├
├官僚制度と計量の世界(32)総力戦研究所「日本必敗」――計量は正しく、決定を誤った執筆 夏森龍之介
├
官僚制度と計量の世界(31) 総力戦研究所の模擬内閣と研究生たちの戦後――企画院総裁役・玉置敬三は計量行政審議会会長になった 2026年10月6日 · 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(30) 矢野宏と井伊浩市がいた新制東京大学の教養学部と学生のようす 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(29) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その5- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(28) ローマ教皇ピウス12世のローズヴェルト批判と戦後のナチスとドイツ国民の区別政策 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(27) 情報戦に弱いため開戦の是非と終戦の時期を判断できなかった日本政府 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(26) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その2-執筆 夏森龍之介
├
官僚制度と計量の世界(25) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その1-執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(24) 戦争への偽りの瀬踏み 日米の産業力比較 陸軍省戦争経済研究班「秋丸機関」の作業 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(23) 第二次大戦突入と焦土の敗戦(なぜ戦争をし敗れたのか) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(22) 結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(21) 戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(20) 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その4- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(19) 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その3- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(18) 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その2- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(17) 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その1- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(16) 大正15年生れ、花の第1期生、戦後第1回度量衡講習生であった男の人生-その3-
 執筆 夏森龍之介

├官僚制度と計量の世界(15) 大正15年生れ、花の第1期生、戦後第1回度量衡講習生であった男の人生-その2- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(14) 大正15年生れ、花の第1期生、戦後第1回度量衡講習生であった男の人生-その1- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(13) 昭和24年生れ 計量教習所修了後に千葉県(計量検定所)に奉職した男の公務員人生-その3- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(12) 昭和24年生れ 計量教習所修了後に千葉県(計量検定所)に奉職した男の公務員人生-その2- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(11) 専門学校などを紹介する雑誌で計量教習所のことを知った 入所試験を受けると合格した-その1- 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(10) 計量公務員への就職事情 国の機関・計量標準総合センターと地方公務員としての計量行政職員 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(9) 陸士、海兵卒業者には旧帝大入学が認められた 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(8) 東京物理学校50年小史が伝える高野瀬宗則 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(7) 中国における科挙制度の歴史 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(6) 官僚 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(5) 国家総合職と官僚機構 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(4) 経済産業省の施策の一つに計量標準の供給と適正計量の実施の確保がある 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(3) OECDのプリンシパル・アドミニストレーターの古賀茂明 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(2) 計量課に二度目の着任となった高山峰雄計量課長 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(1) 通商産業省秋津修計量課長と芦原駅に降り立つ 執筆 夏森龍之介
├
├総力戦研究所とは何だったのか――NHKドラマ訴訟で再び注目
├


旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 旅行家 甲斐鐵太郎
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官僚制度と計量の世界(31) 総力戦研究所の模擬内閣と研究生たちの戦後――企画院総裁役・玉置敬三は計量行政審議会会長になった 2026年10月6日 · 執筆 夏森龍之介

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