1970年 ある活動家の学生生活
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1970年 ある活動家の学生生活
絵は辻まこと 辻まこと - Wikipedia 画家。山岳をテーマとした画文で知られ山岳誌の表紙絵を描いていた。1975年没。
(タイトル)
1970年 ある活動家の学生生活
(本文)
1970年 ある活動家の学生生活
1970年にその男は学生のある組織員として活動していた。在学四年のうち自分が自治会執行委員そして自治会執行委員長ときの二度、学費値上げ反対を主な内容としてストライキ(同盟休校)を行った。全学生による投票でストライキ(同盟休校)が決まると大学は授業を休講した。事実上、ストライキ権が認められていたことになる。在学の四年間の全ての年度でこの学生自治会ではストライキが実施されていた。1968年、1969年の学生自治会活動はベトナム反戦と安保改定そして学費値上げ反対などでストライキが行われていて、こうした動きのなかに東大闘争、日大闘争などがあった。
ある大学の自治会執行員長が属する中央組織の長は1908年(明治41年)10月17日生れであった。コミンテルン型の組織原則によって運営されていた組織であり、この組織に身を置くことは何処かの恐い組織の一員になるようなことに似ていた。組織の在り方に懐疑したが運動の大義には同意した。
「蟹工船」で知られるプロレタリア作家の組織活動を描いた小説が必読文献になっていて、それを読んでは英雄の姿を描き、他方では恐怖に身が縮んだ。読むべきとされたものに組織の長の獄中12年の間の妻との遣り取りの記録文があった。1908年(明治41年)10月17日生れの者と、18歳で発表した『貧しき人々の群』が世の注目を集めた作家であり妻でとの間で交わされた文章である。妻は1899年(明治32年)2月13日生れ。この女流作家は1951年(昭和26年)1月21日に他界。生きていたらこれらの文章を多くの人に読ませることに恥じらいを覚えたのではないか。獄中12年の男は英雄になる。
東京都千代田区のその組織の学生の数は多く最盛期でもあった。属する組織の千代田地区委員会には学生対策部と呼ばれる置かれて、大学運動の学生を指導していた。昼の学生は朝早くから、夜の学生は授業が始まる午後6時から終電までの時間まで精一杯に活動した。組織に属する学生は、とくに幹部学生は授業にでることはなかった。教室に行くのはビラを配り、そのことを語るためであった。教室から戻るとガリ版に向かって、次の日の準備をして、会議をして終電に飛び乗った。
この組織が最高の盛り上がりを見せたのは1970年夏の山中湖での平和友好祭であった。山中湖での一泊か二泊でのキャンプはテント泊かバンガロー泊。岸部の砂浜で篝火(かがりび)を焚いての青春歌と労働歌を歌いダンスをした。燃え上がる炎は青春と夏の輝きと重なった。これが1970年安保の前夜祭が夏の平和友好祭。同じ夏には社会科学研究会が山梨県の四尾連湖で学習の合宿をし、また学生組織全体で鎌倉市の海の家で未来を展望する社会像とそれにれんどうする運動論を自主学習した。ある男とある女は横笛を持ち込んで楽しそうに演奏し、浜辺で駆けっこをして笑いあっていた。海水浴をすると参加者の一人は見事なバラフライをしてみせた。鎌倉の海は明るく輝いていて参加者は喜々としていた。この中には学生次々回委員長になる男の姿があった。
秋には10月21日の安保改定阻止に重ね合わせて、学生自治会はベトナム平和と学費改定反対の運動を大きく押し広げ、自治会がある大学では授業放棄のストライキを打った。東京での学生集会には全国から多くの学生自治会とその学生が集まり日本の革新と夜明けを夢見させた。
ある大学のこと。10月21日の安保改定はそのまま通り、ストライキによる学費値上げの阻止行動は跳ね返された。あるいは値上げ幅に考慮がされた。私学への国庫助成の要求は時を経て進展を見せた。このころの国立大学の授業料は月額1,200円程度だった。一年か二年の間にそれは2,400円になった。神田の中華料理屋の酢豚が800円の時代である。早稲田に合格しても地元の地方国立大学を選ぶことが珍しくない、こうしたことが普通であった時代の大学と学生生活である。2026年4月の現時点では国立大学の授業料は私立大学の二倍ほど。差が縮まるのと連動するように上位の私立大学への進学人気が高まっている。
千代田区の御茶ノ水駅の終電の時刻まで活動していた学生たちである。大学自治会委員長をしていた男はは国労組合員から専従活動家なった男と親しかった。郷里が同じということとその人が学生対策部長であったことによる。学生対策部長からは後年ある話がされる。
学生自治会執行委員長としてストライキを打つことは退学を覚悟してのことである。行きが仮上仕方がないことであり、誰かが身体を張らないことには運動は前に進まない。その男の父親が学生課の職員室に姿を現した。職員を前にしての面会であり。父の気持ちはわかっているが引くに引けないことを察して貰うしかなかった。この父親のもう一人の男の子の次男はある地方国立大学で寮生活をしていた。その国立大学で学費値上げに反対する不払い運動があった。家に来た支払通知書が送り届けられると親はさっさと納付していた。大学進学率が高校生全体でも3割に届かない時代のことである。1968年(昭和43年)の4年制大学進学率は13.8%~13.9%。団塊の世代が大学受験期を迎え18歳人口が230万人を超える中での数字。親にしてみればせっかく入学した大学であり何としても無事に卒業してもらいたいのであった。
私立大学の運営の費用が授業料であってみれば、インフレが進行する1970年当時にあってはその原資の確保のために授業料を値上げすることになる。10%のインフレが3年続けば30%以上のコストアップになる。学生自治会は国庫助成を求めた。それは論理の帰結であり論理の合理性を形作るものであった。それから50年が経過すると私学助成は増えたが国立大学の授業料は私学の二分の一の水準になった。
学生自治会の運動は学費値上げ阻止も70年安保も目標を達成できずに終わる。二つの目標だけでみれば敗北。これだけを考えていた学生と活動家たちは意気消沈する。秋が過ぎ冬を迎えた。学生組織は会議の招集を掛けても集まるのは三分の一ほ。長い期間半分に達しない状態になっていた。各学部組織の幹部学生も同じであり、元気が良かった学生が姿を見せなくなった。。会議に出ないのに大学に姿を現すことはできない。教室でストライキを呼びかけ運動の先頭に立っていた者がそのようであった。
学生は大学に単純に学問を楽しむだけに来ているのではない。卒業資格も欲しかった。社会へでる切符として。学生の組織員の中枢部の者はこの二つを事実上は諦めていた。何かによってそれを捥(も)がれていた。幹部学生には組織に参加をしないことは、大学に足を運ばないことであった。コミンテルン型の組織運営体制はそのような結末をもたらした。勇ましく、立派に論理を説く幹部学生が突然に大学から姿を消す。自治会委員長はこのような人を何人も見た。姿を消したのは小林多喜二が描く組織活動家の姿を模範とする者たちであった。
学生自治会執行委員長は活動から遠ざかる者のほかに別のことも見えていた。活動に参加する女性たちの必死さ、健気さに驚いた。その女性活動家の三割ほどが学生組織の男と結びついた。活動の厳しさの第一番は機関紙を増やすことへの負担である。何よりも心の負担。自分の立場を明かして組織団体の機関紙誌を拡張するための説得は苦しい。このようなことを終生続けるのかと考える。女子学生には今が青春であり、今が伴侶を得る時とその場所であった。活動の苦しさ、難しさは、恋愛への憧れと隣り合わせになった。普通に学業をする学生生活ではなく、活動という重荷の負担は大きかった。組織はその重荷の負担を求めた。
ある女性活動家は大学を出て二年ほどして結婚した。相手は同学年の別の学部の組織員であった。男は千代田区のその組織の専従となり、女は後に女性参議院議員の秘書となった。この結婚式でお酒が入り酔いが回ると千代田区のその組織の学生対策部長をしていた男が学生自治会委員長だった男に話しかけてきた。あのころは随分と無茶なことを要求していて済まなかった、と。何故ならばということで次のことを例に挙げた。実は1908年(明治41年)10月17日生れのこの組織の委員長の子どもがある大学で活動していたときに終電帰りは何故なのかと問われたというのであった。そのような活動形態は駄目なのだと叱られたのだと言う。苦渋と苦難の学生組織の活動をしてきた身にはそんなことは当たり前のようにやらされてきたのであり、学生生活への配慮などは一切なかったのだ。だから学生組織の幹部は活動を止めることは大学に来ないことであった。そのようにして多くのすぐれた活動家が大学を去った。
学生自治会委員長の父親は大学の学生課に来て、子どもの安否を問い心配の言葉を口にしたのであった。子どもはそれを聞いても様子を改めることはなかった。「12年の手紙」の1908年(明治41年)10月17日生れの男は、自分の子どもが同じように活動していると、無理があると組織を使って活動形態を改めさせた。その「12年の手紙」の男は東大闘争を組織の本部から見ていた。東大の現場学生や、その指導に当たる卒業生を通じて、学生の運動の厳しさを知っていた。このことは後に「査問」という本を書いた男のよって明かされる。何がどのように改められなされたのかは不明であるが、明治41年生れの男の、その子どもは学業を積んである国立大学の教授になった。
学生対策部長が結婚式で話しかけてきたその結婚式の主役であった男は千代田区のその組織の専従となっていた。学生対策部長だった男と同じ職場で専従活動をしていた。何年もしないうちに自律神経失調症になりうつ病で大きなハンデを背負って社会生活を送った。学生自治会委員長だった男は組織に誘ったことが良かったのか自問した。国労職員であった学生対策部長は身体を病んで専従職員を退職した。学生自治会委員長だった者が住む下町のある区の駅前で居酒屋を開いた。
コミンテルン型を体現してきたその組織は原則を変えていない。小林多喜二が描く組織活動ができる者は少ない。小林多喜二の時代に花開いていた文芸は今は廃れた。明治41年生れの組織の長であった者は文芸評論家として世に出た。『貧しき人々の群』の著作のある1899年(明治32年)2月13日生れの女流作家と結婚。女流作家の死後は1920年(大正9年)生れのその秘書と結婚し、1958年に長子である男児が誕生した。
その男児が大学生になり学生組織で活動するようになる。学生活動への組織の要求の厳しさを吾が子の活動を通じて感じ取った。親である明治41年生れの組織の長は緩和の対応を求めた。学生自治会委員長の父親は大学の学生課に足を運んで子どもの身を案じてたのであった。明治41年生れの組織の長は吾が子の身を案じて学生活動への要求を緩和させたことを、学生組織の対策部長が深い意図を持たずに話した。このことを30年か40年か50年か心の底に埋めてきた学生自治会委員長である。
明治41年生れの男に関する考察。まともに組織を見ていれば解かること、知っていても問題と考えなかったことを、東大闘争における組織本部との遣り取りを通じて、「査問」を受けた男が明かす。明治41年生れの男は「査問」を受けた者たちの振る舞いを不信を抱いて、泳がせるように観察した。「査問」を受けた者たちは反逆に似た感情を持ち、同時に青年組織のなかに解放区を築いていた。組織だった反逆の行動でもあった。
組織の分裂を何度も経験してきた明治41年生れの男は反逆の気配を敏感に感じ取った。ある事件を契機に反逆者たちを葬る行動にでた。青年活動の組織分野の誤りを正常に戻すとして、新日和見主義の言葉を使い、その誤りは双葉のうちに摘み取る、と号令を発した。
新日和見主義として処置された者たちとその行動実態の一切を学生自治会委員長は知らない。実態を知らないままに双葉のうちに摘み取る、という文章を読まされていた。事実や実態が示されずに新日和見主義という言葉が声高に叫ばれ、それは双葉のうちに摘み取るのだとされた。新日和見主義の真相が明らかになるのは事件から25年後のこと。ある男が1997年に出版した『査問』による。
組織への反逆としての新日和見主義の根底にあることの一つは、新左翼か既存の左翼組織かと迷いながら後者に身を置いた者の揺れ動く心と無縁ではなかったのではないか。学生活動家は大きくは二つの左翼活動がせめぎ合う状態に置かれ、ともすると武力行動と重なっていた。ラジカルの競い合いがあり、そのラジカルさで学生一般の気持ちを引き付けることもなされた。「査問」の男は後々まで新左翼の活動家の心情理解に心を砕いていた。もう一つは、困難を極めるほどの組織活動とその勢力拡張運動にあったのではないか。さらにもう一つは組織に身を投じた者のその後の生活の見通しである。『査問』の著者は東京大学教育学部を卒業していたが、この先この組織に身を置いて生きて行くことができるのか、別な言い方をすると組織の幹部として登用されることがあるのかどうか、ということへの不安があった。このことが『査問』で表現されている。
繰返しになる。『査問』の著者とそれを指導する明治41年生れの男と東大闘争の指導的立場の当事者ととして接触があった。表の指導者と裏の指導者との関係である。もっとも『査問』の著者は東大を卒業していて東大の学生組織の指導者であった。この時代の学生活動家の献身ぶりは特別であった。このことを知らないとは明治41年生れの男は言えない。自分の長子の男児がその活動の場に身を置くようになる。すると厳しすぎる活動を解除するよう学生組織の指導機関に迫った。
上に述べられていることは本文の執筆者に、当事者が愚痴をこぼしたことの拾い話である。事実とどれほど符合するか定かではないが、かけ離れてはいない。執筆者がそうした時代を生きていたことによる実感である。事実でないにしても、もしもそのような事実があるならば、どのように考えて、どのように対処するのが良いのか。何時の時代にも起こり得ることだから想定して考察することに意味はある。
2026-04-18-the-merits-and-demerits-of-the-1970-inquiry-case-handling-