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├見ていた青春「神田学生街の一九七〇年」-改訂版5稿-2026年10月09日・@森夏之
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十一の文書の照合結果から、福島新吾の六つの問いへの総合的な回答をまとめました。連載に使いやすいよう、である調で書いています。
六つの問いは、別々の問いではない。一つの連鎖の各段階を問うている。
連鎖の出発点は、「小さく貧しい国が、軍事によって領土と資源を広げることで繁栄できる」という前提である(石井秋穂の言う「侵略思想」)。この前提のもとで日中戦争は終わらせられず、米国の撤兵要求を受け入れられないまま、国力の差を知りつつ開戦した。国民は景気の回復と宣伝によってこれに同調した。しかし戦争は国民の総力を一つにまとめられず、生活が崩れると、末端から順に国家を離れていった。最後に、通貨と物資の釣り合いが崩れ、経済は闇へ流れた。
六つの問いの根にあるのは、「知っていたこと」と「決めたこと」の断絶である。
日本は勝てないことを知っていた。新庄健吉の現地調査と秋丸機関は、米国の産業力を日本の約20倍と算出した。陸軍省戦備課は「二年以上先は確信なし」と回答し、総力戦研究所は「日本必敗」の結論を出した。小野寺信は「日米開戦絶対不可」と打電している(第24回・第27回・関連論説その1)。
それでも開戦したのは、戦争の意思が先に決まっており、数字はそれを追認する材料として使われたからである。遠藤武勝は秋丸機関について「戦争意志は別のところで決められ」たと回想している。統帥部は自ら作った楽観的なデータに「催眠術」のようにかかった(第23回)。判断を支えたのは、「短期決戦なら」「ドイツが勝つなら」という二つの仮定だった。情報も、大島浩の親独情報だけが採用され、正反対の情報は派閥の事情もあって退けられた(第27回)。
根本には二つの事情がある。一つは、日中戦争を終わらせられなかったことである。中国からの撤兵は満州の放棄につながり、それを受け入れる者は「上から下まで誰もいなかった」(石井秋穂)。もう一つは、天皇・内閣・統帥部のいずれもが最終的な責任を明確に引き受けない統治構造である。天皇は避戦の意思を和歌で示したが、輔弼の側はそれを決定に結びつけなかった(第21回・第23回・ニュースの窓-408)。
第一に、戦争が不況からの脱出と結びついて受け止められた。昭和恐慌で疲弊した国民にとって、満州進出と軍需景気は暮らしの改善として実感された(ニュースの窓-408)。軍需による雇用回復が熱狂を生んだ点は、ドイツのヒトラー支持と同じ型である(第25回)。
第二に、宣伝と情報統制があった。国民は大本営発表しか知らされず、戦況の真実を初めて知ったのは敗戦の日の新聞であった(第22回)。日清・日露・第一次大戦の三つの勝利体験が「戦えば勝つ」という感覚を育て、八紘一宇・大東亜共栄圏という「見事な文句」に知識人までが同調した(第21回)。
第三に、「歓迎」の中身は熱狂だけではなかった。異を唱えずに大勢に従う同調と沈黙が、体制を支えていた。福島の言う「大勢順応主義」であり(第22回)、ドイツで言われる「カール氏」である(第29回)。
期待は層によって異なっていたが、共通していたのは戦争が経済の行き詰まりを解決するという期待である。
国民が信じたドグマと、国の調査機関の報告書の論理は同じものだった。
「戦意」は層によって正反対であった。
上層の高級将校は、最後まで抗戦を叫んだ。軍の存続が自らの家業であり、敗北は軍の解体を意味したからである(第21回・第25回)。宮城事件の将校たちがその典型である。
下層の兵士には、戦う目的が共有されていなかった。学徒兵は「消耗品」として下級指揮官の補充に充てられ、講和を唱えかねない文系の青年が軍隊内に拘束された(第25回・第29回)。兵站を無視した作戦、失敗が組織に伝わらない構造、無謀な命令が前線の士気を奪った(第24回のノモンハン・インパール)。初年兵いじめに象徴される兵営の実態もあった(第23回)。降伏の報に特攻要員の頬がゆるんだという証言は、下層の本音を示している(第22回)。
戦意の欠如は兵士個人の怯懦ではない。福島の言う「国民の総力を集中統合できなかった政治のありかた」の結果である(第26回)。
国民の支持は、はじめから条件付きのものだったからである。ドイツについて第25回が書いたとおり、熱狂は「戦争が優位で生活の向上を実感できる間だけ」のものだった。日本でも、問い二の熱狂を支えた景気と生活が崩れたとき、国家に従う理由が失われた。
配給制は1943年末までにほぼすべての生活物資に及んだが、船舶の喪失(油槽船隊は最盛期の4分の1)で物資が届かず、配給だけでは生きられなくなった(関連論説その1・ニュースの窓-408)。大本営発表の嘘が明らかになり、国家への信頼も崩れた。人々は国家より生存を選び、統制は名目だけのものになった。
問い二と問い五は同じ現象の表と裏である。手の平を返したのではなく、手の平を合わせていた理由が消えたのである。
価格という「物差し」が実態と合わなくなったからである。
戦費は増税では賄いきれず、公債の発行で賄われた(ニュースの窓-408)。通貨が膨らむ一方、物資は減り続けたが、公定価格は低く据え置かれた。売り手は公定価格では損をするため、現物を手元に置くか闇に回した。こうして現物は闇価格でしか動かなくなった。福島が1947年に岐阜で見た闇いもの山、大阪の伯父の家具店に豊富にあった在庫は、この光景である(第26回)。
この歪みの清算が、戦後の預金封鎖・新円切替(1946年2月)と財産税(同年11月)であった。なお、公債の日銀引受けによる通貨膨張の仕組みは、連載の本文ではまだ明示されておらず、ここは経済史の通説で補っている。
1. 失敗の核心は情報の欠如ではなく、計量を決定に結びつける制度の欠如であった。
日本には国力を正しく計量する人材と組織があった。秋丸機関、新庄健吉、陸軍省戦備課、総力戦研究所、小野寺信、外務省の機密電報である。しかし目的が先に決まり、数字は追認の道具になった。福島が社研に入ったのは、この断絶をつなぐためであった。社研の設立趣旨「学問研究の成果と国の政策を結びつける」は、この教訓そのものである。
2. 責任の所在が曖昧な統治構造が、開戦も終戦も遅らせなかった。
天皇大権と輔弼、統帥権の独立のもとで、誰も止めず、誰も最終的に決めなかった。同じ構造が、国体護持への固執、情報判断の誤り、ソ連仲介への賭けを生み、終戦を焦土になるまで遅らせた(第21回・第27回・第28回)。
3. 総力戦を叫んだ国が、総力を統合できなかった。
学問は政策判断から排除され、暗号解読への数学者の動員は1943年まで遅れた(第23回・第27回)。米国はOSSに研究者を集めていた(第28回)。兵士は目的を共有できず、国民は闇へ離れた。「総力戦」は掛け声にとどまった。
4. 国民の同調には経済的な土台があり、それが崩れれば支持も崩れる。
熱狂(問い二)と離反(問い五)は、同じ経済的条件の表と裏である。景気と宣伝で得た支持は、生活が崩れれば消える。
5. 公の「物差し」が信頼を失うと、社会は闇に移る。
公定価格は、国家が示した価値の目盛りである。その目盛りが実態と離れたとき、人々は公の目盛りを捨てて自分たちの目盛り(闇価格)で取引した。正しく計ることへの信頼が社会の秩序を支えるということは、「官僚制度と計量の世界」という連載の主題に戦時経済の側から光を当てる。
6. 「国民はだまされた」という戦後の語りは、問い二を見えにくくした。
ナチスとドイツ国民を区別した米国の方針は、日本では「軍部が悪く国民は被害者」という語りになった(第28回)。福島の問いは、国民自身がなぜ戦争を歓迎したのかを問う点で、この語りに抗っている。この問いを手放さないことが、同じ過ちを繰り返さない条件である。
照合文書その11(ニュースの窓-408「大東亜戦争と経済と昭和天皇裕仁の役割」の五編)を、これまでの十の文書と突き合わせました。
この文書で、連載でずっと空白だった問い五・六に、初めて日本についての答えの骨格が出そろいました。
問い二についても、第25回のドイツの型(経済回復→熱狂)を日本に当てはめる記述が、第1編の第一章・第二章に入っています。私が第25回のときに提案した「日本への当てはめ」が、ここで実現しています。
ただし、五編とも六つの問いや福島新吾には一度も触れていません。連載本編とつなげる一文が必要です。
| 問い | 408が加えたもの | 到達点の変化 |
|---|---|---|
| 一、何故戦争をしかけたのか | 石油禁輸と開戦の詔書の「経済断交」。木戸による東条奏薦の狙い(「白紙還元」)とその失敗 | 第23回の御前会議に、9月6日から12月1日までの経緯が加わった |
| 二、国民は何故興奮して歓迎したのか | 昭和恐慌の閉塞感が、満州進出を「不況打開の突破口」として歓迎する世論の土壌になった。満州国建国と重化学工業投資が好景気を実感させ、対外強硬論を支持させた | 日本についての答えが初めて出た。 第25回のドイツの型と対になる |
| 三、何を期待していたのか | 不況からの脱出 | 第22回(農村救済)・第24回(東亜経済ブロック)と一致する |
| 四、軍隊は何故戦意が無かったのか | — | 変化なし |
| 五、統制経済にそっぽを向き闇物資に狂奔したのか | 1943年末までにほぼ全生活物資が配給制になった。末期には「公定価格を無視した闇市場が拡大し、統制経済は名目上のものと化した」 | 骨格ができた。 第26回の福島の目撃(岐阜の闇いも)を、ここに具体例として結べる |
| 六、闇価格でしか流通しなかったのか | 公債発行による戦時インフレ。戦後の預金封鎖による清算 | 骨格ができた。ただし仕組みの説明が一段足りない(下記参照) |
事実関係の確認です。
第21回から第29回、関連論説その1、ニュースの窓-408まで、合わせて十一の文書を照合しました。全体を通した最終の対応表と、回をまたいで直すべき共通の誤りの一覧は、問い五・六の回および第31回(総力戦研究)の構成案とあわせて、共有できるドキュメントにまとめることができます。
照合文書その10(第29回)を、第21回〜第28回と関連論説その1に突き合わせました。
第29回の本文の大部分は第25回と同じ文章の再掲です。学徒出陣壮行会、末弘厳太郎、福島新吾の学徒出陣論、ヒトラーユーゲントの一文がそれにあたり、資料表も第26回の再掲です。そのため、六つの問いへの新しい答えはほとんどありません。新しい要素は、川本三郎の池内紀追悼文にある**「カール氏」**です。これは問い二(国民の熱狂)に対して、連載中でもっとも鋭い枠組みになりえます。一方で、この追悼文の全文転載は、著作権上の扱いを見直す必要があります(下記参照)。
| 問い | 第29回が加えたもの | 到達点の変化 |
|---|---|---|
| 一、何故戦争をしかけたのか | — | 変化なし |
| 二、国民は何故興奮して歓迎したのか | 「カール氏」。ナチズムを支えたのは、ユダヤ人迫害に見て見ぬふりをし、自分の小さな幸福だけを守る善良な小市民だった。「体制に異を唱えなければいい時代だった。経済も、治安も安定した」 | 熱狂を「沈黙と同調」として捉え直す視点が加わった。 第21回の「大勢順応」、第22回の福島の「大勢順応主義」と同じ型である |
| 三、何を期待していたのか | 「歓喜力行(KdF)」の休暇旅行など、生活の楽しみの約束 | ドイツ国民の期待の具体例が加わった |
| 四、軍隊は何故戦意が無かったのか | 学徒兵は「消耗品」、文系青年を軍隊内に拘束(第25回と同文) | 変化なし |
| 五・六、統制経済と闇価格 | — | 変化なし |
第25回で指摘した点が、そのまま残っています。
誤字・脱字と思われる箇所です。
第21回から第29回までと関連論説その1、合わせて十の文書を照合し終えました。ここで、全体の最終の対応表に次の内容を加えて一つのドキュメントにまとめることができます。
照合文書その9(第28回)を加えて、第21回〜第28回と関連論説その1を通した照合をまとめました。
第28回は、総題の後半「なぜ終戦が遅れたか」に三本目の柱を立てています。第21回は国体護持、第27回は情報判断の失敗でした。第28回が示すのは和平ルートの選択の誤りです。日本はバチカン(金山・原田)、スイス(加瀬・藤村とダレス)、スウェーデンといった米英に通じる窓口を持ちながら、ソ連の仲介に賭けました。
もう一つ重要なのは、第28回の主題「ナチスとドイツ国民の区別政策」が、問い二(国民は何故興奮して歓迎したのか)と緊張関係にあることです(下記参照)。
| 問い | 第28回が加えたもの | 到達点の変化 |
|---|---|---|
| 一、何故戦争をしかけたのか | 「勝ち目の少ない戦争であると知っていて開戦」。天皇は1941年10月13日に、開戦前から和平の出口としてバチカンを考えていた | 第23回・第24回の「短期決戦・早期講和」の前提が、天皇の側からも裏付けられた |
| 二、国民は何故興奮して歓迎したのか | ナチスとドイツ国民を区別する米国の方針 | 新しい論点(下記参照) |
| 三、何を期待していたのか | 「完全勝利はなく、有利な戦況を築いて早めの講和」。真珠湾の成功で「欲が出る」 | 指導層の期待(第23回の永野)と、期待が膨らむ過程が加わった |
| 四、軍隊は何故戦意が無かったのか | 大和の特攻は「戦う姿勢を示すだけが目的」 | 上層が「戦意を見せる」ために将兵を使ったことの例が加わった |
| 五、統制経済にそっぽを向いたのか | ベルリン市民は宣伝放送を「もう聞かない。生き残ることだけが大事になっていた」 | 第25回の「熱狂は生活向上の間だけ」の型を、ドイツの末期が裏付けた。日本の材料はまだない |
| 六、闇価格 | — | 変化なし |
| 総題の後半(なぜ終戦が遅れたか) | ソ連仲介への固執。米英への窓口(バチカン・ベルン)が機能しなかった。海軍省・外務省は藤村ルートを信用しなかった | 三本柱がそろった。第21回の国体護持、第27回の情報判断、第28回の和平ルートの選択 |
事実関係の確認です。
誤字・脱字と思われる箇所です。
照合文書その8(関連論説その1「経済からみた日米戦争と国力差、ウクライナ戦争の終着点」)を、第21回〜第27回と突き合わせました。
この論説は連載本編ではなく、国力差を数字で示す資料編の役割を持っています。六つの問いとの関係では問い一(国力差を知りながら開戦した)の裏付けが中心で、問い五・六への直接の答えはありません。ただ、本文中の一語「預金を封鎖された」が、思いがけず問い六への入口になっています(下記参照)。
| 問い | 関連論説その1が加えたもの | 到達点の変化 |
|---|---|---|
| 一、何故戦争をしかけたのか | 新庄健吉の経歴と調査(第24回より詳しい)。石油の米国依存。米国の対日戦略(無条件降伏・焦土化) | 第24回の数字の補強。新しい論点はない |
| 二・三、熱狂と期待 | — | 変化なし |
| 四、軍隊は何故戦意が無かったのか | 陸軍兵士の6人に1人、海軍の4人に1人が戦死。航空機38,000〜50,000機と搭乗員の大半を喪失 | 消耗の規模を示す数字が加わった。 第25回の「学徒兵は消耗品」を裏付ける |
| 五、統制経済にそっぽを向き闇物資に狂奔したのか | 油槽船隊が最盛期の4分の1に縮小。『火垂るの墓』(配給の外で食料を求める兄妹) | 物資途絶の数字が出た。国民が配給制度の外へ出ていった背景として使える |
| 六、闇価格でしか流通しなかったのか | (「預金を封鎖された」の一語) | 下記の提案を参照 |
事実関係の確認です。
誤字・脱字と思われる箇所です。
第28回・第29回、または関連論説その2(インフラ建設と経済成長)もお送りいただければ、照合を続けます。ここまでの八つの文書を通した最終的な対応表と、問い五・六を受ける回の構成案(戦時財政・預金封鎖・闇価格)をまとめることもできます。
照合文書その6(第26回)を加えて、第21回〜第26回の六つの回を通した照合をまとめました。
第26回の最大の収穫は、空白だった問い五・六に、福島新吾自身の目撃が初めて出てくることです。1947年3月の旅行で、岐阜では「ぶち上げ」と呼ばれた闇運搬のいもを警察が摘発して線路際に山積みにしていました。大阪では、追放された伯父の家具店に「家具は豊富に在庫」がありました。まさに「現物があるのに正規の流通に乗らない」光景で、福島はノートに「統制の功罪二面」と記しています。
さらに、社研を志望した動機として、福島は六つの問いを二つの研究課題にまとめ直しています。
後者は第31回の「総力戦研究」に直結します。
| 問い | 第26回が加えたもの | 六回を通した到達点 |
|---|---|---|
| 一、何故戦争をしかけたのか | 福島自身の総括「米国の実情を知らずに開戦した軍人、政治家、官僚」。日ソ中立条約と三国同盟による対英米戦の備え。ドイツが日本の南進をけしかけた | 完結している。第26回の福島の一文は、連載全体の問い一の結論として冒頭か結びに置ける |
| 二、国民は何故興奮して歓迎したのか | ベルリン市民の松岡歓迎の熱狂(ニュース映像の読み上げ文)。「ナチスは軍部の中から湧き出たのではない」 | 日独の違いが見えてきた。 ドイツの熱狂は党と大衆から生まれたが、日本は軍部が主導した。日本の熱狂の描写は依然として薄い |
| 三、何を期待していたのか | ドイツの「生存圏(レーベンスラウム)」と東方植民 | 日本の東亜経済ブロック(第24回)と、ドイツの生存圏が対になる |
| 四、軍隊は何故戦意が無かったのか | 福島「国民の総力を集中統合できなかった政治のありかた」 | 下層の厭戦(第22回・第25回)に、総力を統合できなかった政治の失敗という上からの説明が加わった |
| 五、統制経済にそっぽを向き闇物資に狂奔したのか | 岐阜の闇いもの摘発、「統制の功罪二面」、巡査のたかり、二・一ストへの「貧困と食糧不足」からの共感、切符を知人(貿易庁)経由で入手 | 初めて具体的な材料が出た(いずれも戦後1946〜47年の光景である点に注意) |
| 六、現物があるのに闇価格でしか流通しなかったのか | 家具の豊富な在庫、闇で運ばれるいも | 目撃は出たが、なぜそうなるか(公定価格とインフレ)の説明はまだない |
第26回の福島の言葉「国民の総力を集中統合できなかった」は、総力戦研究所の名前そのものに対応します。
この二つを対にすると、第31回は問い一と問い五を一本の線で結ぶ回になります。第26回の軍需生産指数(日本は1941年の32から1944年の100へ約3倍、米国は11から100へ約9倍)も、第24回の国力差を戦中の実績で裏付ける資料として使えます。
事実関係の確認です。
表記の確認です。
続く第27回〜第29回もお送りいただければ、同じ形式で照合を続けます。問い五・六は第26回でようやく材料が出てきたので、戦時中(1943〜45年)の闇と統制の実態を扱う回があるかどうかが次の焦点です。
次との照合 [官僚制度と計量の世界(27) 情報戦に弱いため開戦の是非と終戦の時期を判断できなかった日本政府 執筆 夏森龍之介](http://syokota888.ec-net.jp/new-1-measurement-news-/news-metrology-data-bank-/2025-02-19-no25-3-small-countries-grow-taller-and-world-war-2-.html)
(見出し)
官僚制度と計量の世界(27) 情報戦に弱いため開戦の是非と終戦の時期を判断できなかった日本政府 執筆 夏森龍之介
(本文)
日米開戦前夜、ドイツと日本の敗戦処理のヤルタ会談後、大本営は事態を認識できなかった
ヤルタ会談の写真。ヤルタ会談は1945年2月4日から11日にかけて、ソビエト連邦のクリミアのヤルタにあるリヴァディア宮殿で開かれた。イギリスのチャーチィル、ソ連のスターリン、米国のローズベルトら連合国首脳による会談。米国とソ連はヤルタ秘密を締結。ドイツ降伏から90日後にソ連が対日参戦し、これに伴ない千島列島、樺太、朝鮮半島、台湾などの日本の領土の処置を決めた。
日米戦争開戦前夜のドイツとソ連の東部戦線、フランス国境の西部戦線
日本の大本営は第二次世界大戦における欧州戦線の戦況把握をしにくい状況であった。大本営から直接に派遣された武官がドイツとソ連の東部戦線、ドイツと英国ならびに米国とフランス軍のレジスタンスとの西部戦線を間近かにみて確かめればある程度のことは掴める。それでも知り得た事実にどの程度の重みがあるのかは別のこと。
ヒットラーに心酔させたしまったドイツ駐在武官の大島浩は後に駐ドイツ大使となってヒトラーと交流が深かった。ヒトラーはドイツの軍事作戦を大島浩に伝えなかった。ドイツなど日本大使館からの本国への電報が解読されているという前提でヒトラーは大島に話をした。
ヒトラーがソ連との不可侵条約を破って攻め入ることを大島は周知の事実のようにして知っていた。1941年3月にベルリンに来ていた松岡洋右外務大臣に対して日ソ不可侵条約締結を行なわないよう進言する。ベルリンのあとにしてモスクワ入りした松岡洋右は日ソ中立条約に調印する。それは1941年(昭和16年)4月13日のことであった。1941年6月5日にヒトラーと会った大島は、ドイツがソ連に戦争を仕掛けることを察知し打電した。松岡は取り合わなかった。既に条約締結を決めていたからだ。
独ソ戦 戦況を伝える二つの相反する情報
大島浩のこのときの伝言の内容は当たっていた。大本営はその後「大島情報は正しい」と思い込む。日本が1941年12月8日に対英米に宣戦布告する時点で、ドイツのスターリングラードへの侵攻が失敗に帰たことが判明していた。大島はヒトラーの口から出た「ドイツの戦意は旺盛」という言葉をそのままに打電した。同じ時期に小野寺信陸軍大佐はスエーデンんのストックフォルムで大使館付き駐在武官として活動していた。ポーランドの高級将校にして諜報武官ペーター・イワノフはソ連が圧倒的に優勢になっていることを小野寺に伝えていた。独ソ戦の戦況はスイスほかの大使館員などとの交流を通じて確かめられていた。小野寺らはこうした戦況を日本に伝える。小野寺の電文は「日米開戦絶対不可ナリ」である。ドイツのソ連侵攻を言い当てていた苦い思いから、大本営は大島の情報に支配されていた。小野寺の「日米開戦絶対不可ナリ」は無視された。
ミハウ・リビコフスキー(Michał Rybikowski)ことピーター・イワノフは1939年3月19日にポーランド軍の少佐に昇進、歩兵将校軍団で序列88位であった。1941年からストックホルムの日本大使館の職員である小野寺誠大佐を隠れ蓑にして諜報収集の組織を広げて活動していた。ヒムラーはリビコフスキを「ポーランド諜報機関の最も危険な将校」と呼んだ。ポーランドの情報は当然のこととして、ポーランドを支配したドイツがソ連に攻め込む経緯のすべてを知っていたピーター・イワノフは独ソ戦においてドイツ軍が巻き返しの効かない状況に陥っていることを小野寺に伝える。小野寺は周囲の事情をも考慮して事実を確かめ日本に打電した。それが「日米開戦絶対に不可なり」の電文。
ドイツのスターリングラードへの侵攻失敗の状況下で日本が英米蘭の連合国と戦争に突入することは、ドイツとともに日本が敗戦の憂き目に合う公算が絶大であった。
小野寺信はずっと後のポツダム宣言受諾が取りざたされているころに、ソ連が中立条約を破棄して日本に侵攻のするポツダム会談の密約を打電する。日本の対英米への開戦の1941年12月8日から4年後の1945年2月のことである。1945(昭和20)年2月4日~11日まで、アメリカ大統領ローズヴェルト、イギリス首相チャーチル、ソヴィエト連邦共産党書記長スターリンが、クリミア半島のヤルタでヤルタ会談において、千島列島のソ連領有と引き換えに、ソヴィエト連邦はドイツ降伏後3カ月以内に日ソ中立条約を破棄して対日参戦する密約を交わした。英国、米国、ソ連に独自の情報網を持つピーター・イワノフはこれを確認する。小野寺からのソ連の満州への侵攻の情報を大本営はまたも取り合わなかった。
外務省の嘱託職員が暇にあかして片っ端から拾い読みしていた機密電報
結核の病によって幹部候補生を招集解除になり、外務省の嘱託職員になっていた福島新吾は、外務省内部の資料によって終戦直前の戦況を把握していた。次のような手記がある。
「私の勤務なるものは、通常はほとんど無人の部屋で、暇にあかして棚から勝手に機密電報を引っ張り出し、片っ端から拾い読みをすることにつきた。そこには大本営発表とは正反対に、珊瑚海、フィリピン沖海戦の大敗、陸奥、武蔵、信濃、大和など大艦の無為の撃沈や事故、スイス、スウェーデンなど駐在の日本の外交官たちの報告。アイルランドのダブリン駐在の別府節弥領事のものが特にすぐれていた。中立国を介しての米英政府への必死の和平のための接触。外国電報ではpeace-feelersといわれていた。佐藤尚武駐ソ大使以下の、和平斡旋依頼のための近衛特使のソ連派遣受入れ交渉の顛末などが記され、眼から鱗の落ちる思いを日々くりかえしていた」
駐ソ大使佐藤尚武は父親の福島喜三次と東京高等商業学校の同期
福島新吾の父親の三井合名理事、福島喜三次は1904年(明治37年)7月に東京高等商業学校(現・一橋大学)を首席で卒業するが、佐藤尚武駐ソ大使は父親と学業を競っていた。佐藤は東京高等商業学校全科卒、同専攻部領事科へ入学。1905年(明治38年)、外交官及び領事官試験に合格し外務省入省した。駐ソ大使佐藤尚武の報告などをみて何を感じていたか。外務省には戦況と各国のようすが小野寺信の報告と同じように確かな形で伝えられていた。
何故このようになってしまったのか
何度も繰り返すが、第一高等学校から東京帝国大学法学部へと進み、学徒動員につづく幹部候補生の途中で結核のため招集解除になり外務省の嘱託職員として終戦を迎えた男の問いかけである。
一、何故こんな馬鹿げた戦争をしかけたのか。
二、国民は何故あんなに興奮して戦争を歓迎したのか。
三、そこに何を期待していたのか。
四、軍隊は何故あんなに戦意が無かったのか。
五、国民は戦況不利の仲で、何故手の平をかえしたように、統制経済にそっぽを向き、闇物資の入手に狂奔(きょうほん)して経済を混乱させたのか。
六、何故現物があるのに闇価格でなければ流通しなかったのか。
そして「何故こんな馬鹿げた戦争をしかけたのか」。負けることが自明の戦争を仕掛け、都市は焼かれ焦土となり、和平も道を探る余地なしで日本の無条件降伏を求められた。
「何故このようになってしまったのか」を問い、探るための本稿である。
1945年8月16日にストックフォルムに届いたスエーデン国王を通じての和解の執り成し
ヤルタ会談の密約が1945年8月9日のソ連の対日宣戦布告により満州への進行が確認された、1945年8月15日付の日本から小野寺信への電報はスエーデン国王を通じての和解の電文になっていた。着電は8月16日であった。1954年8月15日の前日はポツダム宣言受諾で軍部に不穏な動きがあった。そうした中での小野寺へのスエーデン国王を通じての和解の執り成しの通信となった。
国民へは大本営が嘘発表を続けている状況下、大本営はまた欧州戦線での情報ならびにヤルタ密約の内容を伝える電文に疑心暗鬼となっていた。事実を伝える情報の選り分けをする判断力を持ちえなかったか、自己に都合が良いように解釈した。
暗号表による電文と解読合戦
電文は暗号を用いて発信される。小野寺信大佐からのストックフォルム電報は婦人の小野寺百合子が暗号表を用いて打電していた。日本大使館や日本の駐在武官が本国との通信の電文はドイツにもイギリスにも解読されていた。
イギリスはドイツによるロンドン空爆などを予測するために暗号解読を推し進め、アラン・チューリングらの働きによって、ドイツの暗号機械「エニグマ」の読解に成功していた。この事実は1970年代まで秘密にされた。
真珠湾攻撃発令の電文 ニイタカヤマノボレ一二〇八
日米開戦決行の打電はニイタカヤマノボレ 一二〇八。新高山登レ ヒトフタマルハチ)。つまり1941年12月8日に攻撃を開始せよ。想像力を働かせれば1941年12月8日に何かが起こる。新高山登レの意味をどのように理解するか。新高山登レは合図のための隠語であり、つまりは符丁。新高山は当時日本領であった台湾の山で標高3,997メートル。日本で一番高い山だった。
米国が開戦の暗号を解読していたことを示す証拠はない。日本が戦争を決意していることは察知していた。暗号解読を通じて「これは戦争を意味する」こと程度はわかっていたが日時場所などの詳細は把握できなかった。学習院大学学長をした日本政治外交史の井上寿一はラジオに出演した際に真珠湾攻撃は米国に察知されなかったのは歴史学者の定説になっていると述べている。
日本政府の対米最後通告は真珠湾攻撃の一時間後となったので、ローズヴェルト大統領は日本の「だまし討ち」と米国民に訴えて戦意を高めることに利用した。米国は第二次大戦後には朝鮮戦争につづくベトナム戦争をする。ベトナム戦争に至っては米国民の戦意は失われ反戦活動に火が付く。その後に米国が仕掛けた戦争には正義はなく、徴兵制は解かれる。
アラン・チューリングによるドイツの暗号解読
アラン・チューリングらは1939年にドイツのローター式暗号機エニグマの解読に成功した。イギリスは解読成功の事実を隠し通したためにドイツ軍は終戦までエニグマを使用した。日本の各国大使館と本国の電報は暗号表によっていたが、戦後になって解読されていた事実が明かされた。
チューリングは、第二次世界大戦の期間中にブレッチリー・パークにあるイギリスの暗号解読センターの政府暗号学校にてドイツの暗号の解読に成功する。英国の海上補給線を脅かすドイツ海軍のUボートの暗号通信を解読する部門の責任者となり、エニグマ暗号機を利用した通信における暗号機の設定を見つける機械「bombe」(ボンブ)を開発した。
第二次世界大戦に先立つ1938年9月からイギリスにおける暗号解読組織である政府暗号学校 (GCCS) でパートタイムで働き始めたチューリングは、ディリー・ノックスと共にエニグマの解読を担当。第二次世界大戦勃発の5週間前の1939年7月25日、ポーランド軍参謀本部第2部暗号局 (en)とイギリスおよびフランスの関係者によるワルシャワでの会合で、ポーランドが解明したエニグマのローター回路の情報を得ていた。チューリングとノックスは、その情報を基にして解読を進めるが、ポーランドの解読法はドイツ側の暗号のキーを変える手法に対応できないでいた。暗号のキーの変更は1940年5月にもなされている。チューリングは汎用的でクリブ式暗号解読全般に使える手法を導き出し、 bombe(ボンブ)の機能として盛り込んだ。
ポーランド軍参謀本部第2部暗号局 (en)における暗号解読者はレイェフスキ。1932年12月、シュミット情報を元にレイェフスキは3個のローター配線を解析することに成功。これでドイツ陸軍のエニグマが読めるようになった。ローター解析には群論が用いられた。ドイツは暗号発信者に安易な開始位置設定をしないように求めても、今度はキーボード配列を借用したQAY、PYX等の鍵が多発する。このころの鍵探索法はgrill-methodとであり、プラグボードが6組の置換であった。このためにエニマグによって発信される暗号の解読された。
戦後のチューリングは、イギリス国立物理学研究所(NPL)に勤務。プログラム内蔵式コンピュータの初期設計のひとつであるACE (Automatic Computing Engine) に携わったが完成を見ずに異動。1947年、マンチェスター大学に移ると、初期のコンピュータである Manchester Mark I のソフトウェア開発に従事、数理生物学に興味を移していった。形態形成の化学的基礎についての論文を書き、1960年代に初めて観察されたベロウソフ・ジャボチンスキー反応のような発振する化学反応を予言した。
開戦以前から読み解かれていた日本の外交暗号電報
暗号による通信の解読ができていてもその事実を隠すことは軍事戦略上の常識である。英国が1939年にドイツのローター式暗号機エニグマの解読に成功していたことを明かしたのは1970年代になってからである。簡単な暗号表による通信を米国は早い時期に解読していた。
山本五十六連合艦隊司令長官の1943年4月18日午前6時、山本を含めた連合艦隊司令部は第七〇五航空隊の一式陸上攻撃機2機に分乗してラバウル基地を発進した。山本は1号機、宇垣は2号機に搭乗する。零式艦上戦闘機6機に護衛されブイン基地へ移動中、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊のP-38ライトニング16機に撃墜され戦死した。山本長官の行動予定の暗号無線は解読されていた。
NHKは1982年9月22日放送の「日米暗号戦争(1)山本五十六の最期1」で、太平洋戦争で使用した日本軍の暗号は、ほとんど米軍側に解読されていたとしている。山本五十六連合艦隊司令長官の搭乗機が米軍機の待ち伏せ攻撃を受けたのも日本海軍の暗号を米軍が解読していたから、として当時の日本の関係者の証言と米軍の記録から長官機撃墜の真相をさぐっている。司会は鈴木健二であった。
連合艦隊司令長官の山本五十六は、ブーゲンビル島、ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうため、ラバウルからブーゲンビル島のブイン基地を経て、ショートランド島の近くにあるバラレ島基地に赴く。前線視察計画は、艦隊司令部から関係方面に打電された。小沢治三郎は、山本機と宇垣機の護衛戦闘機が少ないことを危惧し、先任参謀・黒島亀人に護衛機を50機増やすことを宇垣に伝えるよう託した。黒島はデング熱で体調が悪く宇垣に伝えなかった。一式陸攻の墜落を偶然に目撃した陸軍第六師団歩兵第二十三連隊長・浜之上俊秋大佐は、山本機とは知らず、軍医中尉蜷川親博と見習士官中村常男に捜索と救助命令を出していた。
アメリカ海軍情報局は、4月17日に「武蔵」から発信された山本五十六の慰問計画の暗号電文を解読してこの前線視察の情報を知った。ニミッツは、山本暗殺の議論で後にもっと優秀な司令官が出てくることを心配したが、太平洋艦隊情報参謀エドウィン・レイトンから「山本長官は、日本で最優秀の司令官である。どの海軍提督より頭一つ抜きん出ており、山本より優れた司令官が登場する恐れは無い」という答えがあり、また、山本が戦死すれば日本の士気が大きく低下すること、山本がきわめて時間に正確な男で今度も予定を守るだろうということを理由に山本の暗殺を決断し、南太平洋方面軍司令官ウィリアム・ハルゼーに対する命令書を作成した。
対英米開戦における英国への攻撃成功の暗号電文はハナサクハナサク
1941年12月8日朝、真珠湾攻撃と同時刻に第23軍飛行隊は啓徳飛行場の英国軍機に対して航空第一撃を加えた。開戦命令の電文はマレー半島上陸成功を知らせる「ハナサク・ハナサク」という暗号であった。英国軍は対応が遅れ、啓徳空港もこの際に攻撃され、マニラから到着したばかりのパンアメリカン航空のシコルスキーS-42をはじめとする航空機を日本軍に破壊され、空軍機と義勇軍使用の民間機、航空会社の民間機あわせて12機が炎上、2機が大破し全飛行機を失った。
英国ロンドン郊外ミルトンキーンズにあるブレッチリーパークに英国のM16が密かに入手した日本陸軍の日本語とアルファベットで書かれた暗号書(乱数表)を展示している。1944年には既に太平洋諸島や欧州などで日本陸軍武官の電報を傍受して解読していた。解読していてもそれを明かすことはない。それ以前に解読されていたと想定される。
解読されていた外交暗号文書
日本の暗号のうち最も早く解読されたのは外交暗号だった。1940年と真珠湾攻撃の1年以上前から終戦まで外交暗号電報が解読された。ベルリンの大島浩大使の暗号電報を解読して連合国側がナチス・ドイツの独裁者ヒトラーの本音を読み取っていた。
外務省電信課長を務めた亀山一二はソ連大使館に参事官として勤務していた1945年12月、戦時中に外務省と在外公館などの間で情報伝達に用いた暗号は理論、技術が幼稚だったと述べる。
海軍の暗号も日米開戦時から解読されていた。連合国は陸軍の暗号は十文字以内の短文でモールス信号を発信していて手こずった。ニューギニアの村落で玉砕した日本軍が残していた暗号表が解読の鍵となった。
1941年から数学者を集めた暗号解読をしていたら簡単には負けなかった
日本の相手国暗号の解析のために東大数学科名誉教授高木貞治らが1943年に動員された。小野寺信がスウェーデンで入手したクリプト社の暗号機「クリプトテクニク」を改良して1944年にアメリカの暗号の一部を解き始めた。
1945年4月からは解読が進み、5月21日は初めて米軍のZ暗号が完全解読できた。7月半ば、米国国務省が重慶の在中国大使館に打電した電文が解読されたことを「暗号を盗んだ男たち」で檜山良昭が述べる。
日本における暗号解読組織は中央特殊情報部の本部は三宅坂の参謀本部にあった。太平洋戦争開始と同時に市ヶ谷台に移り、赤坂に移転後、1944年春に英国、米国の暗号を解読する研究部が杉並区高井戸の浴風園という日本最古の養老院に移った。数学、英語を専攻する学徒動員兵や勤労動員学生、女子挺身隊、旧姓中学生を加えると総人数512人が米国軍の各種暗号の解読作業を行なった。
イギリスの情報機関M16がロンドン郊外ミルトンキーンズにあった庭園とマナーハウスで女性や若いオックスフォードやケンブリッジの学生を動員して各国の傍受電報を解読したステーションX(通称ブレッチリーパーク)と同じである。M16は国外の政治・経済及びその他秘密情報の収集、情報工作を任務としている。
後二年早く、開戦の1941年から数学者を使い始めていたら、あんなに簡単には負けなかっただろう。暗号少佐だった釜賀一夫が悔やむ。
影佐禎昭陸軍大佐による汪兆銘「南京傀儡」政権の樹立
日本陸軍は日中戦争の戦局打開のため、蔣介石と対立した中国国民党親日派の汪兆銘に協力し汪政権樹立を計画を1939年に建てる。1940年3月、南京に日本の傀儡政権の汪兆銘政権が成立。汪兆銘は同年11月には正式に主席となった。計画を建てて実行したのは影佐禎昭陸軍大佐。影佐は1937年陸軍参謀本部第7課(支那課長)、大佐昇進。同年11月、参謀本部第2部(情報部)では対支特務工作専従など日中戦争初期に作戦にかかわる。
影佐を長とする「梅機関」(影佐機関)が汪兆銘政権樹立の工作を進めた。影佐は1939年同年少将に昇進。
蒋介石は南京を追われ重慶に拠点を移して対日戦争を継続
汪兆銘政権は日本の軍事支配下にある南京で南京国民政府として1940年3月30日に樹立された。国民党の蒋介石は南京を追われ重慶に拠点を移して対日戦争を継続していた。国民党の蒋介石の次ぐ序列であった汪兆銘を担いで傀儡政権の南京国民政府を誕生させた。影佐禎昭は汪政府樹立後は汪政府の軍事最高顧問に就任
米国は汪兆銘「南京傀儡」政権を承認せず
汪兆銘政権は国民党の正統な後継者であることを主張するため首都を重慶から南京に戻すことを示す「南京還都式」の形式をとる。国旗は、青天白日旗に「和平 反共 建国」のスローガンを記した黄色の三角旗を加えた。国歌は中国国民党党歌をそのまま使用した。重慶政府との合流の可能性をも考慮して、当面のこととして新政府の「主席代理」に就任し、重慶政府の主席である林森を名目上の主席とした。米国国務長官のコーデル・ハルは、汪兆銘政権を承認しなかった。蔣介石は南京国民政府77名への逮捕令を発している。
日中の和平は成立せず
傀儡政権の南京国民政府を誕生させたものの、汪が意図した重慶政府との和平は実現せず、蔣政権と日本の戦争状態はつづいた。日本とすれば、重慶政府と交戦しながら、南京の汪政権とは和平を結び、日中親善を唱えるという矛盾した状態にあった。蔣介石は中国政治における求心力を高め、抗日闘争が勢いを増した。
蔣介石と汪兆銘「南京傀儡政権」の二つに対して対日和平工作をはかる
大本営に支那課を中心として国民党の序列二位の汪精衛を担いで傀儡親日政権を作り、戦争を終わらせる秘策、主導したのは参謀本部支那課長から謀略課長を務めた影佐禎昭陸軍大佐。影佐には陸軍上層部を説き伏せる政治力があった。影佐は、自民党谷垣禎一の母方の祖父。
大本営内にも現地軍にも、汪兆銘「南京傀儡政権」工作に疑問を持つ者は多かった。彼らは欧米勤務出身者が多くインテリで政治力に欠けた。汪派の人々は長年の中国勤務であったために世界的視野を欠いていたが政治力は強かった。大本営と陸軍参謀本部は汪派の影佐禎昭らに振り回された。
蒋介石の重慶国民党政府との直接和平工作に小野寺信を派遣
影佐禎昭らの動きに疑念を抱いた参謀本部ロシア課は、汪兆銘工作が重要な局面にあることから、その前に蒋介石の重慶国民党政府との直接和平工作を図るために小野寺信を上海に派遣した。小野寺はロシア課の他に謀略課からも命令を受けていた。謀略課は、汪工作と直接和平工作の二つを同時に模索した。
ラトビアの首都リガから参謀本部ロシア課に復帰した直後の1938年7月、小野寺はロシア課課員として同じ岩手県出身の板垣征四郎陸相に好感を持たれていた。板垣を通じて大本営本部と連携する小野寺の蒋介石への和平打診は大本営の意思を反映していた。
小野寺に近衛文麿首相長男の近衛文隆が協力した。近衛文隆は早見親重と友人の武田信近とともに日中和平の工作をした。早見親重は東亜同文書院理事の肩書きで近衛文麿が秘密裏に上海に送り込んだ密偵。近衛文麿は表向きは蒋介石を対手とせず、としていた。
「小野寺機関」における近衛文麿首相長男の近衛文隆と美人諜報員・鄭蘋如
近衛文隆の行動記録として、小野寺さんの手先となり重慶工作に深入りしつつ、と「木戸幸一日記」に記載がある。早見親重には中支那派遣軍の同僚の三木亮孝が協力した。早見、三木、近衛文隆を介して、鄭蘋如(てい ひんじょ)がこれにかかわった。日中混血の美貌の諜報員の鄭蘋如は、重慶政府の特務機関、国民党中央執行委員会調査統計局に属していた。その鄭蘋如が和平構想に動く「小野寺機関」に協力した。鄭蘋如の役割は翻訳係ということになっている。
近衛文隆は学習院中等科卒業後、外交官を目指し、周囲の反対を押し切りアメリカに留学し、ローレンスビル・スクールを卒業、プリンストン大学に学んだ。1939年(昭和14年)、東亜同文書院講師、兼学生主事(俸給・月 117円60銭、在外手当・月 54円40銭)に就任して上海へ。上海では蔣介石との直接交渉の必要性を感じ、政府要人の娘と交際してその手引きで重慶に向かおうとして憲兵隊に捕まり、閣議でも問題視されたため日本帰国。帰国後も青年同志会という組織を作って直接交渉を主張。軍部から問題視され、1940年(昭和15年)2月に召集され、満洲阿城砲兵連隊に入隊。幹部候補生考査に合格して陸軍のち中尉昇進。1945年(昭和20年)8月15日、満洲で終戦を迎え、GRUのスメルシ部隊の襲撃を受け8月19日に捕虜となる。シベリア抑留で15ヶ所もの収容所を移動させられた。1956年(昭和31年)10月29日に捕虜収容所で死亡。
鄭蘋茹(てい ひんじょ)は中華民国の特務諜報員。上海のグラビア雑誌『良友画報』の表紙に載ったことがある。鄭蘋茹に重慶国民政府の特務機関・中央統計局から次の指令がでる。重慶国民政府を裏切って、汪兆銘政権傘下の特工総部(ジェスフィールド76号)の指導者となっていた丁黙邨を暗殺せよと。1939年12月21日に丁の暗殺計画を実行するも失敗。ジェスフィールド76号に出頭、監禁の後、1940年2月に処刑される。
蒋介石は袂(たもと)を分かって南京傀儡政権をつくった汪兆銘をベトナムのハノイに滞在中に暗殺を図る。汪兆銘の寝室を襲った襲撃はこの日連れの部下の部屋と取り替えていたために命拾いをする。部下は死んだ。蒋介石はこの時代に暗殺は戦術として躊躇(てめらい)なく実行していた。
根本的和平は蒋介石政権との交渉しかない 小野寺信の行動
影佐禎昭陸軍大佐は傀儡政権を作って和平の道を見出そうとした。小野寺は多くの中国国民の支持を集める蒋介石を相手に戦争を早く切り上げようと考えた。「中国のナショナリズムを考えると、傀儡の汪政権では、中国の民衆の信頼を得られない。根本的に解決するには、蒋介石政権に直接和平交渉を開くしかない。そして天皇の決断を得ずして、泥沼化した日中戦争の終結は無理だろう」と。
影佐禎昭は東條英機内閣総理大臣の「影佐は中国に対して寛大すぎる」によって、1942年北満国境の第7砲兵司令官へ転任、同年中将。翌1943年にラバウルの第38師団長へ転任。ズンゲンの戦いで生き残った成瀬部隊に玉砕を命じた。水木しげるの漫画「総員玉砕せよ!」がこの顛末を描く。米軍の重爆撃機B-29がラバウル上空を日本本土へ向かう状態の孤立無援のまま当地で終戦を迎えた。
北欧バルト三国駐在を通じて傀儡政権の脆弱さを見ていた小野寺信
バルト三國のラトビアの首都リガに駐在してヨーロッパで民族の興亡を見た小野寺は、傀儡政権では立ち行かないことを知っていた。最初のフィンランドのソ連との冬戦争のとき、ソ連が作った傀儡政権では国民が動かなかった。ドイツがノルウェーに作った傀儡政権でも国民は動かなかった。
小野寺はソ連が世界を共産化する野心を持っていることをラトビア滞在を通じて知った。蒋介石の国民党の背後に敵対関係にありながら、抗日運動を通じて国民党と手を組もうとする中国共産党がいる。中国共産党をコミンテルンが操縦していることを見通した。日本軍と国民党政府との戦争が長期化すると益するのは中国共産党であり、ひいてはソ連。日本軍は蒋介石国民党と和平し、ソ連とコミンテルン対策をすべきと小野寺とその陣営は考えた。
帰国した小野寺は参謀本部謀略課の臼井茂樹を通じて板垣征四郎陸相と中島鉄蔵参謀次長と面会。小野寺と同郷の板垣陸相は「香港はもちろん、重慶まで行って蒋介石に会う」と語っている。小野寺は作戦課の中で、重慶直接交渉派だった秩父宮や堀場一雄からも激励された。
小野寺は、東海道線で京都から帰京する近衛文麿に浜松-小田原間の車中で面会する。近衛は軍が同意さえすればと言うだけで、諸手を挙げての賛成ではなかった。失意の小野寺に陸軍士官学校31期で同期の親友、臼井茂樹が手を差し伸べる。臼井は蒋介石と直接交渉する委任状を発行した。
臼井茂樹は陸軍大学校(38期)。1940年(昭和15年)8月、参謀本部課長に転じ、浜松陸軍飛行学校教官を経て、1941年(昭和16年)7月、飛行第98戦隊長に発令され太平洋戦争に出征。ビルマの戦いに参戦し、1941年12月、ラングーン攻撃の機上で戦死し、陸軍少将に進級した。
小野寺信は陸軍士官学校31期、歩兵科5位で恩賜の銀時計組。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業。臼井茂樹ともども陸軍の出世街道を歩いていた。
日中和平二つの道 交渉相手は傀儡政権か蒋介石か
対中国との和平を重慶政府の蔣介石とか汪兆銘の「南京傀儡政権」に分けて、この二つの道筋を政治的な対立として捉えると、重慶政府の蔣介石に重きを置いた小野寺信の側と、汪兆銘「南京傀儡政権」を利用しようとした影佐禎昭の側がある。日中和平工作の二つの道ということになる。
汪兆銘「南京傀儡政権」を米国は承認しなかった。中国国民は蒋介石の重慶政府を支持した。蒋介石は国共合作で連合国側に付いて対日抗戦を強め、日本の1945年8月15日のポツダム宣言による無条件降伏を引き出す。
皇道派小畑敏四郎の一番弟子小野寺信と統制派東條英機に影響はあったか
小野寺信の陸軍内部での政治的地位を推し量る。小野寺が陸軍内の権力闘争に敗れた背景には盧溝橋事件の前年1936年2月に発生した二・二六事件があったとされる。陸軍内では、蒋介石と和解しソ連に対抗するため国力の充実を図ろうという勢力と、対ソ連は棚上げにして中国大陸を支配しようという勢力に分かれていた。前者は荒木貞夫、真崎甚三郎、小畑敏四郎らが率いて皇道派と呼ばれ、永田鉄山、東條英機が主導する後者の統制派である。
皇道派の若手将校が起こした二・二六事件後、皇道派の人々は陸軍中枢から外れ、統制派が主導権を握るようになった。小野寺は小畑の一番弟子と見なされる皇統派の一端にあった。皇道派と統制派の対立は、駐在武官として小野寺が参謀本部に送る情報の取り扱いに影響し、小野寺からの重要情報である日米欄開戦直前に独ソ戦におけるドイツ軍の苦境の通報、終戦直前におけるヤルタ会談のソ連の対日参戦の密約の通報を、参謀本部は無視することとなった。
蒋介石への和平提案は1938年から1940年12回なされた
汪政権が成立しても日中和平は実現しなかった。日本政府が親日中国人に約束した大陸からの日本軍の撤退をしなかったこといよる。東條英機に嫌われた主流派だった影佐禎昭はラバウルの第三十八師団長に更迭された。
蒋介石は「蒋介石日記」の中で、自分に対する日本の和平案は1938年から1940年の間に12回提議され、和平要求を12回拒否したことを明らかにしている。小野寺は12人のうち初期の一人だった。
小野寺が上海から帰国する寸前、蒋介石は部下の姜豪(きょうごう)を通じて金製のカフスボタンを贈った。カフスボタンには蒋介石が自筆で書いた和平信義の彫が入っていて、国と国の間は和平、人と人との間は信義、との言葉を小野寺に伝えた。小野寺は上海で、中国国民党上海市党部委員の姜豪と接触し、国民党組織部副部長の呉開先を通じて重慶で和平会談の実現をめざした。上海には汪兆銘支援のため影佐禎昭が「梅機関」を設立していて、この路線(汪兆銘工作)と対立したため自然消滅した。姜豪との和平工作は姜豪工工作と呼ばれ1939年(昭和14年)1月に企図された。このとき工作に当たった小野寺信は中佐であり、大日本帝国陸軍中支那派遣軍司令部付であった。
日ソ中立条約調印に向かう松岡洋介外相にヒトラーはソ連への侵攻意図を隠した
ヒトラーはベルリンを訪問した松岡洋介外相に対して独ソ戦を実行に移す意図を隠していた。
ロンドン駐在だった辰巳栄一少将は、1940年10月、独軍の英本土攻略は不可能と断言できぬまでも、その実現は困難と判断する、と参謀本部に報告している。これは英米に偏りすぎたているとして、大島浩大使のベルリンからの親独情報を判断の材料として優先した。統師部は独ソ戦などの小野寺信、辰巳栄一による正確な戦況の知らせが届いていた。しかしヒトラーに心酔し負け戦を今尚戦意旺盛というヒトラーと伝えをそのままに受け取って日本本国に伝える大島の情報に寄りかかっていたのが大本営。ヒトラーはストックホルム駐在武官の小野寺信の、その情報源がロンドンの暫定ポーランド政府に属する高級将校のリビコフスキーであり、その内容が正確であることを知っていた。そうした活動をしていたリビコフスキーはゲシュタボによる暗殺の危機を掻いくぐって活動していた。日本の大本営は中国戦線を戦っていて、対英米戦もやってしまおうということで腹は決まっていたから、このことに都合の良い駐獨大使大島浩の報告を採用した。
ドイツ軍は日本外交団に英本土上陸作戦を匂わせた
1943年小野寺はノルウェーを占領したドイツ軍に招待され、ノルウェーを訪問したときにドイツ参謀本部のウォロギツキー大佐から次の事実を告げられた。独ソ戦前のドイツ大本営は、作戦準備をカモフラージュするため日本外交団に対して、ドイツ軍が英本土上陸作戦に向かう印象を持たせるように仕組んだ、と。
ヒトラーは自分たちが伝える情報を鵜呑みにする大島大使を最大限に利用して、偽情報による撹乱作戦行動にでた。
ロンドン暫定ポーランド政府所属の諜報武官幹部のリビコフスキー
中立国のスエーデンの首都ストックフォルムにはソ連、ドイツの軍事情報を得るために各国の武官が駐留していた。日本のストックホルム駐在武官室の小野寺信に協力していたのがペーター・イワノフである。ポーランド参謀本部の武官であり情報将校の頭(かしら)でもあるミハール・リビコフスキーである。ミハール・リビコフスキーはロンドンの暫定ポーランド政府に所属していた。リビコフスキーはドイツのポーランド侵攻につづくドイツの作戦は対ソ開戦間違いなしという事実を諜報組織を通じて掴んでいた。ドイツ軍は開戦に備えソ連国境に近いポーランド領内で次々と部隊を配置していた。ペーター・イワノフ(ミハール・リビコフスキー)の情報は正確であった。
エストニアとポーランドの情報武官が小野寺の味方について、非常に精度の高い情報を優先的に回したことで、どこよりも早くて正確な軍事情報を手に入れることができた。
秘密警察ゲシュタポのペーター・イワノフ暗殺指令
ナチスはペーター・イワノフ(ミハール・リビコフスキー)の暗殺命令をだしていた。ナチスの秘密警察ゲシュタポはリビコフスキーの直属部下のヤクビャニェツ大尉を捕まえた。ヤクビャニェツ大尉はポーランド地下組織のリーダーとして、ドイツとソ連に対する諜報活動をしていた。ヤクビャニェツはリトアニアのカウナス日本領事館で杉原千畝領事代理に協力している。日本とポーランドの諜報協力は強固だった。
ドイツは、ベルリン駐在の大島大使が自分たちに都合の良いことだけを日本に情報として送っているのに、ストックホルム駐在武官の小野寺が正反対のことを日本に伝え、その情報源がロンドンの暫定ポーランド政府に属する高級将校のリビコフスキーであり、その内容が正確であることを知っていた。ドイツ諜報機関はリビコフスキーの身柄引き渡しを駐独大使の大島浩に要請、これが小野寺信に伝えられたが、小野寺は拒絶した。
リビコフスキーを殺すためにゲシュタポは躍起になった。リビコフスキーの部下が暗殺されるに至った状況からいよいよリビコフスキーの身が危なくなったために小野寺信はリビコフスキーの身の安全を確保するために次のようなことをした。
英国に逃がすためにペーター・イワノフに日本パスポートを発行
満州国のパスポートであったリビコフスキーのパスポートをストックホルム公使館の神田代理公使に依頼して、日本パスポートに変更した。ペーター・イワノフのパスポートは白系ロシヤ人として満洲国のパスポートであった。リトアニヤにいた日本領事杉原千畝の斡旋でベルリンの満洲国公使館から発行されていた。満州国は英米などに承認されていない国であるためにパスポートの効力が及ぶ範囲が狭かった。
リビコフスキーはロンドンに逃れて諜報活動を続け、ヤルタ会談における極東密約、つまりソ連の対日宣戦布告がドイツの無条件降伏後2~3カ月後であることを小野寺に知らせた。このような情報はスイスの日本大使館も掴んでいて参謀本部に打電していたことが判明している。幾つかの情報はドイツ降伏とソ連の対日参戦、満州侵攻の密約を確認していた。
外交クーリエである郵便物「行嚢(こうのう)」でヤルタ密約の知らせが届く
ポーランド諜報機関の最も危険な将校ミハウ・リビコフスキーを英国に無事に逃したあとで小野寺との通信は途絶えていた。英国から大野寺のもとへ行嚢(こうのう)郵便物が届いた。外交クーリエである。リビコフスキーからのや旅行用の袋であり、大使館などが用いる場合には厳重な封印がなされ何人も開封することができない外交上の取り決め郵便物である。ヤルタ会談の極東密約におけるソ連の満州侵攻の知らせであった。
外交クーリエとは機密文書送付の外交特権郵便
外交クーリエとは、外交文書を本国と各国の大使館や公使館間で運搬する特使のことで、外交特権の一つ。外交文書には機密文書が多く含まれるため厳重に封印が施され、外交行嚢には「DIPLOMAT(外交官)」の文字が印刷され、税関などで確認が行われない。
亡命ポーランド政府の情報士官達は、日本の外交特権の行嚢(こうのう)を使って、在欧公使館やバチカンの支援を受け、ポーランドのワルシャワやリトアニアのヴィリニュスからスウェーデンを経由して、ロンドンのポーランド亡命政府へ情報を送る全欧規模の広範な諜報ネットワークを確立していた。行嚢(こうのう)とは、郵便物や旅行用の袋であり、大使館などが用いる場合には厳重な封印がなされ何人も開封することができない外交上の取り決め郵便物である。
ポーランドの地下組織が日本の各国大使館と外交クーリエの特権を使って情報が伝達されていることについて在ローマ日本大使館の河原峻一郎一等書記官は、イタリア国防省から警告を受けていた。
ポーランド亡命政府公式情報としてのヤルタ密約が小野寺信に届けられていた
リビコフスキーの身の危険はゲシュタポだけではなく日本大使館大島浩がからんで脅(おびや)かされた。日独伊三国同盟締結後、ドイツ一辺倒になったベルリン日本大使館で、満州国参事官としてポーランドとの諜報協力を主導していた陸軍中野学校の初代校長、秋草俊も露骨にリビコフスキーを嫌悪。ドイツはベルリンの大島浩大使を通じて執拗にリビコフスキーの身柄引き渡しを求めた。
ストックホルム駐在武官でスエーデン国王の和平仲介を働きかける活動をしていた小野寺信大佐と連携していたはリビコフスキーをストックホルムの武官室で保護しつづけた。ゲシュタポは既にリビコフスキーの協力者の女性を公園で殺し、リビコフスキーが満州の偽造パスポートを使って日本陸軍武官室の職員として諜報活動をしていることを掴んでいた。リビコフスキー身の安全が窮迫するなか、ストックホルム公使館の神田襄太郎代理公使に依頼して日本パスポートを発給の手配をしたのが小野寺信であった。パスポートの名義はピーター・イワノフに漢字を当てた「岩延平太」であった。
小野寺にリビコフスキ-は、ロンドンの亡命ポーランド情報部が入手した情報を駐在武官のフェリックス・ブルジェスクウィンスキーを経由して届けることを約束していた。それから終戦まで1年半、ロンドンから機密情報が送り届けられた。ブルジェスクウィンスキーはリビコフスキ-の出生地であるリトアニア時代からの友人であった。1945年2月に届けられたソ連の対日参戦のヤルタ密約がこのなかに含まれていた。小野寺信の回想録には、「会談直後の1945年2月半ば、ブルジェスクウィンスキーの長男である少年が、螺旋階段の最上階5階まで駆け上がり、小野寺の自宅郵便受けに手紙を落とした。午後8時、夕食を食べる前だった」とある。外交クーリエとしての行嚢(こうのう)郵便物であった。
ポーランド軍の高級将校の身分であるのがもともとのリビコフスキ-の立場。ロンドンのバッキンガム宮殿に近くのルーベンスホテルに置かれていた亡命ポーランド政府の下に属する亡命政府陸軍参謀本部出向いたリビコフスキーは、連合国側ポーランド軍の旅団長に任命され、イタリア戦線で指揮を執った。リビコフスキーの上官で情報部長のスタニスロー・ガノ大佐が小野寺信に情報をおくりつづけた。
ヤルタ密約情報を知らされた小野寺は直ちに日本の参謀本部次長あてに「ソ連はドイツ降伏より、3カ月を準備期間として、対日参戦する」と打電した。
旧陸軍将校の親睦組織の機関誌『偕行』、1986年4月号「将軍は語る」で、小野寺信は、ヤルタ密約情報は「ポーランド亡命政府の公式情報だった」と述べている。ヤルタ密約の小野寺信情報は、ソ連を通じて和平を実現すると決めてかかっていた日本軍の参謀本部中枢には不都合であった。
ロンドンにあって連合国側の一員のポーランド亡命政府であり、ここに集まる確かな情報としての対日ソ連参戦のヤルタ密約の内容であった。
ポーランド諜報機関の最も危険な将校ミハウ・リビコフスキー
ポーランドは第一次世界大戦、第二次世界大戦ほかを通じて他国の侵攻を受けてきた。第二次大戦においてもドイツの侵攻に屈し、ソ連の押し返しのあとには社会主義の勢力下にあった。国の主権を失うか、主権が形だけの状態になることが多かったのがポーランドだ。欧州は陸続きであり軍事力が弱い国は、勢力を増大させた国の軍門に下って植民地支配される。
ドイツ軍をして「ポーランド諜報機関の最も危険な将校」とされたミハウ・リビコフスキーことピーター・イワノフは、1941年からストックホルムの日本大使館の職員である小野寺誠大佐に協力して、対ソ連、対独の諜報ネットワークを組織して、ソ連、ドイツならびに英米など連合国の動きを探った。ポーランド国の軍人にして士官(陸軍歩兵中佐)リビコフスキーにとっては国の形が一時消えても元の状態に戻すべく行動するのが正義。
ミハウ・リビコフスキー(Michał Rybikowski、別名ピーター・イワノフ、イアン・ヤコブセン、アダム・ミハウホフスキ、アンジェイ・パシュコフスキ)は、1900年2月3日生れ、戦後は米国に移住し 1991年1月27日まで生きた。ポーランド陸軍歩兵中佐。
リトアニアのカウナス県の当時のパネヴェジス地区のロカニ生れ。18歳ではポーランド軍に志願、ベラルーシとリトアニアで活動する諜報機関に配属された。ポーランド・ソビエト戦争に参加。1927年、オストルフ・マゾヴィエツカの歩兵士官候補生学校に転属。1927から28年度には第4士官候補生中隊の小隊長、1928から29年度には中隊教官、1929から30年度には第3大隊の副官。1930年6月15日から9月15日まで、砲兵と歩兵のインターンシップ。1930年10月15日から12月15日、高等戦争学校のトライアルコースを修了。1931年1月5日、ワルシャワの高等戦争学校に、1930年から1932年の第11コースの学生として任命。1932年11月1日、課程を修了し認定将校の卒業証書。
グニェズノの第17大ポーランド歩兵師団の本部に参謀将校として転属。1933年4月29日、彼は1933年1月1日付けで大尉に昇進し、歩兵将校団では116位。1939年3月19日に年功序列で少佐に昇進し、歩兵将校軍団では88位。
自由都市ダンツィヒ、ケーニヒスベルク、カウナスのポーランド諜報部員であり、1941年からストックホルムの日本大使館の職員である小野寺誠大佐の下で対独の諜報ネットワークを組織して、ドイツならびに連合国の動きを探った。ドイツのヒトラーの取り巻きのヒムラーはリビコフスキを「ポーランド諜報機関の最も危険な将校」と言った。
1944年10月24日から1945年2月1日まで、カルパチア・ライフルズ第5大隊の指揮官。1945年8月6日、彼は第2カルパティア狙撃旅団の指揮を執り、1947年に解散するまで指揮。
1991年1月27日にモントリオールで死亡。ポワントクレアのフィールドオブオナー退役軍人墓地に埋葬。
照合文書その7(第27回)を加えて、第21回〜第27回の七つの回を通した照合をまとめました。
第27回の役割は、表題どおり**「開戦の是非」と「終戦の時期」の両方を情報の問題として説明している**ことです。第21回の国体護持(なぜ止められなかったか)と合わせると、総題「何故このようになってしまったのか」の後半、つまり焦土になるまで終戦が遅れた理由に二つの柱が立ちます。また、福島新吾が外務省で機密電報を「片っ端から拾い読み」していた手記の引用は、第22回の「省内の秘密資料で承知していた」の具体的な中身にあたります。
一方、問い五・六(統制経済・闇価格)には触れていません。
| 問い | 第27回が加えたもの | 七回を通した到達点 |
|---|---|---|
| 一、何故戦争をしかけたのか | 大島情報の偏重と、小野寺・辰巳の正確な情報の無視。理由として皇道派・統制派の対立と「腹は決まっていたから都合の良い情報を採用」。日中和平の二路線(汪兆銘工作と蒋介石との直接交渉)の失敗。蒋介石は和平提議を12回拒否 | 完結している。第27回によって、日中戦争を終わらせられなかったことが対米開戦の直接の原因(ハル・ノートの中国撤兵要求)という線がはっきりした |
| 二、国民は何故興奮して歓迎したのか | 「国民へは大本営が嘘発表を続けている状況」 | 情報統制(第22回・第27回)が柱。新しい材料はない |
| 三、何を期待していたのか | — | 変化なし |
| 四、軍隊は何故戦意が無かったのか | 間接的に一点。米軍は山本長官の撃墜で「日本の士気が大きく低下する」と見込んだ | 変化なし |
| 五・六、統制経済と闇価格 | — | 材料は第26回の戦後の目撃のみ |
| 総題の後半(なぜ終戦が遅れたか) | ヤルタ密約の情報を参謀本部が受け入れず、ソ連仲介の和平に固執した。スウェーデン国王を通じた和平の執り成し | 第21回(国体護持)と第27回(情報判断の失敗)で二本柱になった |
事実関係の確認です。
誤字・脱字と思われる箇所です。
照合文書その6(第26回)を加えて、第21回〜第26回の六つの回を通した照合をまとめました。
第26回の最大の収穫は、空白だった問い五・六に、福島新吾自身の目撃が初めて出てくることです。1947年3月の旅行で、岐阜では「ぶち上げ」と呼ばれた闇運搬のいもを警察が摘発して線路際に山積みにしていました。大阪では、追放された伯父の家具店に「家具は豊富に在庫」がありました。まさに「現物があるのに正規の流通に乗らない」光景で、福島はノートに「統制の功罪二面」と記しています。
さらに、社研を志望した動機として、福島は六つの問いを二つの研究課題にまとめ直しています。
後者は第31回の「総力戦研究」に直結します。
| 問い | 第26回が加えたもの | 六回を通した到達点 |
|---|---|---|
| 一、何故戦争をしかけたのか | 福島自身の総括「米国の実情を知らずに開戦した軍人、政治家、官僚」。日ソ中立条約と三国同盟による対英米戦の備え。ドイツが日本の南進をけしかけた | 完結している。第26回の福島の一文は、連載全体の問い一の結論として冒頭か結びに置ける |
| 二、国民は何故興奮して歓迎したのか | ベルリン市民の松岡歓迎の熱狂(ニュース映像の読み上げ文)。「ナチスは軍部の中から湧き出たのではない」 | 日独の違いが見えてきた。 ドイツの熱狂は党と大衆から生まれたが、日本は軍部が主導した。日本の熱狂の描写は依然として薄い |
| 三、何を期待していたのか | ドイツの「生存圏(レーベンスラウム)」と東方植民 | 日本の東亜経済ブロック(第24回)と、ドイツの生存圏が対になる |
| 四、軍隊は何故戦意が無かったのか | 福島「国民の総力を集中統合できなかった政治のありかた」 | 下層の厭戦(第22回・第25回)に、総力を統合できなかった政治の失敗という上からの説明が加わった |
| 五、統制経済にそっぽを向き闇物資に狂奔したのか | 岐阜の闇いもの摘発、「統制の功罪二面」、巡査のたかり、二・一ストへの「貧困と食糧不足」からの共感、切符を知人(貿易庁)経由で入手 | 初めて具体的な材料が出た(いずれも戦後1946〜47年の光景である点に注意) |
| 六、現物があるのに闇価格でしか流通しなかったのか | 家具の豊富な在庫、闇で運ばれるいも | 目撃は出たが、なぜそうなるか(公定価格とインフレ)の説明はまだない |
第26回の福島の言葉「国民の総力を集中統合できなかった」は、総力戦研究所の名前そのものに対応します。
この二つを対にすると、第31回は問い一と問い五を一本の線で結ぶ回になります。第26回の軍需生産指数(日本は1941年の32から1944年の100へ約3倍、米国は11から100へ約9倍)も、第24回の国力差を戦中の実績で裏付ける資料として使えます。
第25回は、ドイツ国民のヒトラーへの熱狂を「軍需による雇用回復・宣伝・組織化」で説明しています。熱狂の冷め方も「戦争が優位で生活向上を実感できる間だけ」と押さえています。この型はそのまま日本の問い二(熱狂)と問い五(手の平返し)の両方を説明する枠組みになりますが、本文ではまだ日本に当てはめられていません。また、福島新吾自身の学徒出陣論が問い四(戦意)に内側から答えています。
| 問い | 第25回が加えたもの | 五回を通した到達点 |
|---|---|---|
| 一、何故戦争をしかけたのか | 大島浩の盲信と情報の誤り。高級将校の「家業」としての軍。大本営の侵略思想。杉山「御上は開戦に反対だぞ」 | ほぼ完結している。新たに、大島(誤った情報)と小野寺(正しい情報)の対比が第23回・第24回・第25回の三回に重複して出てくる |
| 二、国民は何故興奮して歓迎したのか | ドイツの熱狂の仕組み(失業の解消、ラジオ普及70%とゲッベルス、ヒトラーユーゲント)。学徒出陣壮行会は「国民の戦争協力の強化に役立てる演出」(福島) | ドイツについては詳しい。日本への当てはめが一段落あれば完結する(下記参照) |
| 三、何を期待していたのか | 三国同盟はドイツ国民には「戦争勝利への大きな期待」だった | 国民・知識人・国家の三層(第21回・第22回・第24回)に、同盟国ドイツへの期待(第24回の大島、第25回)が加わった |
| 四、軍隊は何故戦意が無かったのか | 福島の答え。 学徒兵は「消耗品」として下級指揮官の補充に充てられた。講和を唱えかねない文系青年を軍隊内に拘束し、彼らは「小さな声で戦争への疑問をささやき続けた」。「戦争を最後まで続けようとしたのは高級将校」 | 第21回で提起した上層(抗戦)と下層(厭戦)の対比が、第25回で本人の言葉によって裏付けられた |
| 五、統制経済にそっぽを向き闇物資に狂奔したのか | 「ヒトラーが英雄だったのは戦争が優位で生活の向上を実感できる間だけ」 | 類推による答えが初めて出た。 日本の国民も、戦況が悪化し生活が崩れた時点で国家から離れた、と同じ型で説明できる |
| 六、現物があるのに闇価格でしか流通しなかったのか | フォルクスワーゲンの積立金の戦費への流用。ドイツの国民所得に占める軍備負担23% | 依然として日本についての記述はない。ドイツの例は、国民の貯蓄が戦費に吸い上げられる仕組み(日本の国民貯蓄運動・戦時国債・日銀引受け→インフレ)への入口になる |
第25回のドイツの分析は、日本にもそのまま対応するものがあります。
この四点を一段落で示せば、問い二と問い五を同じ枠組みで答えられ、問い六(戦時財政とインフレ)へ自然に進めます。
事実関係の確認です。
誤字・脱字と思われる箇所です。
照合文書その4(第21回)を加えて、第21回〜第24回の四つの回を通した照合をまとめました。
第21回の大きな役割は、問い二(国民の熱狂)に初めて正面から答えていることです。「戦争は全てにおいて自国には開戦の理屈を立て、これに国民が同意する」「見事な文句であり普通の日本国民だけではなく知識人まで…望み」という記述です。また、第一次大戦の戦費が借金(公債)で賄われたという記述は、空白のままの問い五・六への入口になりえます。
| 問い | 第21回が加えたもの | 四回を通した到達点 |
|---|---|---|
| 一、何故戦争をしかけたのか | 日清・日露・第一次大戦の三つの勝利体験(「戦えば必ず勝つ」)。高級将校の世襲化と、軍の存続そのものが目的化したこと。反ロシア・反社会主義の基本政策 | ほぼ答えが出そろった。 長い背景(第21回)、本人が信じたドグマ(第22回)、決定の経緯と責任(第23回)、国力の数字と研究が結論を変えない仕組み(第24回) |
| 二、国民は何故興奮して歓迎したのか | 八紘一宇・大東亜共栄圏という「見事な文句」に国民も知識人も同調した。『坂の上の雲』の「国民になった昂揚」という明治以来の系譜 | 第21回のスローガン論と第22回の宣伝・情報統制が柱になる。開戦時(1941年12月)の熱狂そのものの描写はまだない |
| 三、何を期待していたのか | アジア解放・共存共栄という大義 | 国民の側(農村救済・中国資源)、知識人の側(大東亜共栄圏)、国の側(東亜経済ブロック・自給自足)の三層で答えがそろった |
| 四、軍隊は何故戦意が無かったのか | 直接の答えはない。高級将校の世襲や宮城事件(抗戦派将校)は、上層の「戦意」の話である | 第24回の構造面の答え(兵站の無視・無謀な命令)と第22回の兵士の反応が中心。上層の抗戦意識と下層の戦意のなさの対比という切り口が第21回で見えてくる |
| 五、統制経済にそっぽを向き闇物資に狂奔したのか | 直接の答えはない | 依然として空白 |
| 六、現物があるのに闇価格でしか流通しなかったのか | 第一次大戦の各国が公債(借金)で戦費を賄ったという記述 | 依然として空白。ただし入口はある(下記参照) |
事実関係で直したほうがよいと思われる点です。
照合文書その3(第24回・秋丸機関)を加えて、第22回〜第24回の三つの回を通した照合をまとめました。
第24回で、問い一の「なぜ」が国力の数字(日米20対1)と組織の仕組み(研究が結論を変えない構造)の両面から裏付けられました。さらに重要なのは、第22回で福島新吾が「信じ込まされていた」と書いたドグマが、秋丸機関の報告書の論理そのものだったことが見えてくる点です。一方、問い五・六は依然として空白です。
| 問い | 第22回(本人の手記) | 第23回(開戦決定の経緯) | 第24回(秋丸機関・国力比較) |
|---|---|---|---|
| 一、何故戦争をしかけたのか | 中国資源の排他的確保というドグマ | 石井秋穂「侵略思想」、御前会議、天皇と統帥部、「データで催眠術」 | 新庄・秋丸機関がともに国力差20倍と算出。それでも「短期決戦なら」「ドイツが勝つなら」という前提で南進。遠藤武勝「戦争意志は別のところで決められ」。大島浩「経済力生産力の判断はまったくやってない」。小野寺電報の無視 |
| 二、国民は何故興奮して歓迎したのか | 長年の宣伝、情報統制 | 満蒙開拓の背景のみ | 本文は大島浩を「一つの回答」とするが、結びつきが弱い(下記参照) |
| 三、何を期待していたのか | 農村崩壊からの脱出、中国資源の確保 | 満蒙開拓、永野の「20年、50年の平和」 | 東亜経済ブロックによる自給自足、南方資源、「高度国防国家」。第22回の本人のドグマと一致する |
| 四、軍隊は何故戦意が無かったのか | 降伏時の兵士の反応、大勢順応 | 初年兵いじめ(一文) | ノモンハン・インパールの敗因(兵站の無視、失敗が組織に伝わらない、無謀な命令で「前線の士気は著しく低下」)。構造面からの答えになる |
| 五、統制経済にそっぽを向き闇物資に狂奔したのか | — | — | 直接の答えはない。ただし岡田菊三郎の「物的国力は第一年に80〜75%、第二年に70〜65%に低下」が物資不足の前提を示している |
| 六、現物があるのに闇価格でしか流通しなかったのか | — | — | 直接の答えはない。秋丸機関が英米について分析した「生活資料自給力」「消費規正」を日本に当てはめた分析は出てこない |
事実関係の確認です。
| 問い | 第22回(本人の手記) | 第23回(開戦決定の経緯) | 残っている空白 |
|---|---|---|---|
| 一、何故戦争をしかけたのか | 「農村崩壊から脱出するには中国資源を排他的に確保することが不可欠だというドグマ」を宣伝で信じ込まされていた | 石井秋穂の「侵略思想」、資産凍結と石油、御前会議、天皇と統帥部の責任、甘いデータ | 総力戦研究所の「必敗」の結論がなぜ生かされなかったか(第31回で受けられる) |
| 二、国民は何故興奮して歓迎したのか | 長い間の宣伝。8月15日の新聞で初めて戦闘経過を知り、「嘘を並べてきた軍部」に憤った。米兵犯罪の報告が禁止された件も情報統制の例 | 満蒙開拓の背景(恐慌・農村疲弊)のみ | 開戦当時の世論・新聞報道そのものの描写 |
| 三、何を期待していたのか | 農村崩壊からの脱出、中国資源の確保。ハル・ノートの条件を少しでも緩めさせるまではやめられないという「妄信」 | 満蒙開拓(100万戸移住計画)。永野の「20年、50年の平和」 | 指導層の期待と国民の期待の違いの整理 |
| 四、軍隊は何故戦意が無かったのか | 降伏時の兵士の反応が割れていた(特攻要員は頬がゆるみ、基地勤務者は怒り、下士官が将校に迫った)。本人の「戦争努力に完全燃焼しきれなかった」悔しさ。「大勢順応主義」 | 初年兵いじめに一文触れるのみ | 『学徒出陣落第記』の兵営記録そのものからの具体例 |
| 五、統制経済にそっぽを向き闇物資に狂奔したのか | 扱っていない | 扱っていない | 全面的に空白 |
| 六、現物があるのに闇価格でしか流通しなかったのか | 扱っていない | 扱っていない | 全面的に空白 |
連載として読むと引っかかる点です。
事実関係・表現の確認です。
| 問い | 第23回での扱い | 該当する記述 |
|---|---|---|
| 一、何故こんな馬鹿げた戦争をしかけたのか | 詳しく扱っている | 石井秋穂の証言(資産凍結・石油・「侵略思想があった」)、9月5日の御下問と9月6日の御前会議(外交に期限を設けた国策遂行要領)、天皇の責任(小松和生・栗原俊雄・五味川純平)、軍官僚の甘い見通し(「自分たちが作ったデータで催眠術」)、山本五十六の慎重論、大島浩と小野寺信の情報判断の差、国際環境(ローズヴェルト・チャーチル)、拡張政策の年表(引くに引けない構造) |
| 二、国民は何故あんなに興奮して戦争を歓迎したのか | ほぼ扱っていない | 満蒙開拓の背景(世界恐慌・農村の疲弊)が間接的な手がかりになる程度 |
| 三、そこに何を期待していたのか | 一部 | 国民の側は、満蒙開拓(農村救済・100万戸移住計画)に経済的な期待の一端がうかがえる。指導層の側は、永野の「20年、50年の平和」が期待の表明である |
| 四、軍隊は何故あんなに戦意が無かったのか | 一文のみ | 『学徒出陣落第記』の兵営生活と初年兵いじめに触れるだけで、展開はされていない。栗林電報の海軍批判は、士気ではなく軍組織の機能不全の話である |
| 五、統制経済にそっぽを向き闇物資に狂奔したのか | 扱っていない | — |
| 六、現物があるのに闇価格でなければ流通しなかったのか | 扱っていない | — |
事実関係で直したほうがよいと思われる点です。
| 問い | 総力戦研究所との関係 | 照合のポイント |
|---|---|---|
| 一、何故こんな馬鹿げた戦争をしかけたのか | 直接対応する | 「負ける」と分析した組織が国の中にあったのに、開戦が決まった。問題は情報が無かったことではない。分析が意思決定につながらなかった構造にある。 |
| 二、国民は何故あんなに興奮して戦争を歓迎したのか | 研究所の対象外 | 研究所は国力(物量)を計算した。国民の心理や世論は扱っていない。演習の結論は秘密とされ、国民には知らされなかった。 |
| 三、そこに何を期待していたのか | 研究所の対象外 | 二と同じ。指導層が「短期決戦・早期講和」に期待した点は、研究所の「長期戦になる」という予測と真っ向から食い違う。 |
| 四、軍隊は何故あんなに戦意が無かったのか | ほぼ対象外 | 幹部候補生として内側から見た実感による問いであり、研究所の記録では答えられない。「総力戦」は思想戦・士気も含む考え方であるが、演習の中心は物資と輸送であった。 |
| 五、国民は統制経済にそっぽを向き、闇物資に狂奔したのか | 部分的に予測されていた | 物資の枯渇と国内経済の行き詰まりは、演習の結論の延長上にある。ただし国民の行動の変化(統制の空洞化)までは描いていない。 |
| 六、何故現物があるのに闇価格でなければ流通しなかったのか | 研究所の対象外(経済学の問い) | 公定価格が実際の需給より低く抑えられると、物は表に出ずに闇へ流れる。価格統制の根本的な問題である。国富論を読んでいた友人が大蔵省へ進んだ挿話と響き合う論点でもある。 |
総力戦研究所が答えたのは「勝てるか」という問いだけで、それも「勝てない」と答えていました。男の六つの問いは、その先にある「なぜ分かっていて止まらなかったのか」「なぜ国民も軍も経済もああ動いたのか」に向いています。研究所の分析と、政治の決定や社会の動きとの断絶を問うている、と言えます。この断絶は、男が東大社会科学研究所に入った動機にもつながります。社研の設立趣旨は「学問の成果と国の政策を結びつける」ことでした。照合の軸はここに置けると考えます。
Sources:
テキストファイル
十一の文書の照合結果から、福島新吾の六つの問いへの総合的な回答をまとめました。連載に使いやすいよう、である調で書いています。
何故このようになってしまったのか ― 六つの問いへの総合的な回答
総論
六つの問いは、別々の問いではない。一つの連鎖の各段階を問うている。
連鎖の出発点は、「小さく貧しい国が、軍事によって領土と資源を広げることで繁栄できる」という前提である(石井秋穂の言う「侵略思想」)。この前提のもとで日中戦争は終わらせられず、米国の撤兵要求を受け入れられないまま、国力の差を知りつつ開戦した。国民は景気の回復と宣伝によってこれに同調した。しかし戦争は国民の総力を一つにまとめられず、生活が崩れると、末端から順に国家を離れていった。最後に、通貨と物資の釣り合いが崩れ、経済は闇へ流れた。
六つの問いの根にあるのは、「知っていたこと」と「決めたこと」の断絶である。
一、何故こんな馬鹿げた戦争をしかけたのか
日本は勝てないことを知っていた。新庄健吉の現地調査と秋丸機関は、米国の産業力を日本の約20倍と算出した。陸軍省戦備課は「二年以上先は確信なし」と回答し、総力戦研究所は「日本必敗」の結論を出した。小野寺信は「日米開戦絶対不可」と打電している(第24回・第27回・関連論説その1)。
それでも開戦したのは、戦争の意思が先に決まっており、数字はそれを追認する材料として使われたからである。遠藤武勝は秋丸機関について「戦争意志は別のところで決められ」たと回想している。統帥部は自ら作った楽観的なデータに「催眠術」のようにかかった(第23回)。判断を支えたのは、「短期決戦なら」「ドイツが勝つなら」という二つの仮定だった。情報も、大島浩の親独情報だけが採用され、正反対の情報は派閥の事情もあって退けられた(第27回)。
根本には二つの事情がある。一つは、日中戦争を終わらせられなかったことである。中国からの撤兵は満州の放棄につながり、それを受け入れる者は「上から下まで誰もいなかった」(石井秋穂)。もう一つは、天皇・内閣・統帥部のいずれもが最終的な責任を明確に引き受けない統治構造である。天皇は避戦の意思を和歌で示したが、輔弼の側はそれを決定に結びつけなかった(第21回・第23回・ニュースの窓-408)。
二、国民は何故あんなに興奮して戦争を歓迎したのか
第一に、戦争が不況からの脱出と結びついて受け止められた。昭和恐慌で疲弊した国民にとって、満州進出と軍需景気は暮らしの改善として実感された(ニュースの窓-408)。軍需による雇用回復が熱狂を生んだ点は、ドイツのヒトラー支持と同じ型である(第25回)。
第二に、宣伝と情報統制があった。国民は大本営発表しか知らされず、戦況の真実を初めて知ったのは敗戦の日の新聞であった(第22回)。日清・日露・第一次大戦の三つの勝利体験が「戦えば勝つ」という感覚を育て、八紘一宇・大東亜共栄圏という「見事な文句」に知識人までが同調した(第21回)。
第三に、「歓迎」の中身は熱狂だけではなかった。異を唱えずに大勢に従う同調と沈黙が、体制を支えていた。福島の言う「大勢順応主義」であり(第22回)、ドイツで言われる「カール氏」である(第29回)。
三、そこに何を期待していたのか
期待は層によって異なっていたが、共通していたのは戦争が経済の行き詰まりを解決するという期待である。
国民は、農村の窮乏からの脱出と生活の向上を期待した。福島自身も、中国の資源を排他的に確保しなければ農村は救えないと「信じ込まされていた」(第22回)。
知識人は、欧米の支配からのアジアの解放という大義を期待した(第21回)。
国家は、東亜経済ブロックによる自給自足と南方資源を期待した(第24回の秋丸機関の論理)。
指導層は、緒戦の勝利による有利な早期講和を期待した。永野修身の言う「20年、50年の平和」である(第23回・第28回)。
国民が信じたドグマと、国の調査機関の報告書の論理は同じものだった。
四、軍隊は何故あんなに戦意が無かったのか
「戦意」は層によって正反対であった。
上層の高級将校は、最後まで抗戦を叫んだ。軍の存続が自らの家業であり、敗北は軍の解体を意味したからである(第21回・第25回)。宮城事件の将校たちがその典型である。
下層の兵士には、戦う目的が共有されていなかった。学徒兵は「消耗品」として下級指揮官の補充に充てられ、講和を唱えかねない文系の青年が軍隊内に拘束された(第25回・第29回)。兵站を無視した作戦、失敗が組織に伝わらない構造、無謀な命令が前線の士気を奪った(第24回のノモンハン・インパール)。初年兵いじめに象徴される兵営の実態もあった(第23回)。降伏の報に特攻要員の頬がゆるんだという証言は、下層の本音を示している(第22回)。
戦意の欠如は兵士個人の怯懦ではない。福島の言う「国民の総力を集中統合できなかった政治のありかた」の結果である(第26回)。
五、国民は戦況不利の中で、何故手の平をかえしたように闇物資の入手に狂奔したのか
国民の支持は、はじめから条件付きのものだったからである。ドイツについて第25回が書いたとおり、熱狂は「戦争が優位で生活の向上を実感できる間だけ」のものだった。日本でも、問い二の熱狂を支えた景気と生活が崩れたとき、国家に従う理由が失われた。
配給制は1943年末までにほぼすべての生活物資に及んだが、船舶の喪失(油槽船隊は最盛期の4分の1)で物資が届かず、配給だけでは生きられなくなった(関連論説その1・ニュースの窓-408)。大本営発表の嘘が明らかになり、国家への信頼も崩れた。人々は国家より生存を選び、統制は名目だけのものになった。
問い二と問い五は同じ現象の表と裏である。手の平を返したのではなく、手の平を合わせていた理由が消えたのである。
六、何故現物があるのに闇価格でなければ流通しなかったのか
価格という「物差し」が実態と合わなくなったからである。
戦費は増税では賄いきれず、公債の発行で賄われた(ニュースの窓-408)。通貨が膨らむ一方、物資は減り続けたが、公定価格は低く据え置かれた。売り手は公定価格では損をするため、現物を手元に置くか闇に回した。こうして現物は闇価格でしか動かなくなった。福島が1947年に岐阜で見た闇いもの山、大阪の伯父の家具店に豊富にあった在庫は、この光景である(第26回)。
この歪みの清算が、戦後の預金封鎖・新円切替(1946年2月)と財産税(同年11月)であった。なお、公債の日銀引受けによる通貨膨張の仕組みは、連載の本文ではまだ明示されておらず、ここは経済史の通説で補っている。
以上から導けることがら
1. 失敗の核心は情報の欠如ではなく、計量を決定に結びつける制度の欠如であった。
日本には国力を正しく計量する人材と組織があった。秋丸機関、新庄健吉、陸軍省戦備課、総力戦研究所、小野寺信、外務省の機密電報である。しかし目的が先に決まり、数字は追認の道具になった。福島が社研に入ったのは、この断絶をつなぐためであった。社研の設立趣旨「学問研究の成果と国の政策を結びつける」は、この教訓そのものである。
2. 責任の所在が曖昧な統治構造が、開戦も終戦も遅らせなかった。
天皇大権と輔弼、統帥権の独立のもとで、誰も止めず、誰も最終的に決めなかった。同じ構造が、国体護持への固執、情報判断の誤り、ソ連仲介への賭けを生み、終戦を焦土になるまで遅らせた(第21回・第27回・第28回)。
3. 総力戦を叫んだ国が、総力を統合できなかった。
学問は政策判断から排除され、暗号解読への数学者の動員は1943年まで遅れた(第23回・第27回)。米国はOSSに研究者を集めていた(第28回)。兵士は目的を共有できず、国民は闇へ離れた。「総力戦」は掛け声にとどまった。
4. 国民の同調には経済的な土台があり、それが崩れれば支持も崩れる。
熱狂(問い二)と離反(問い五)は、同じ経済的条件の表と裏である。景気と宣伝で得た支持は、生活が崩れれば消える。
5. 公の「物差し」が信頼を失うと、社会は闇に移る。
公定価格は、国家が示した価値の目盛りである。その目盛りが実態と離れたとき、人々は公の目盛りを捨てて自分たちの目盛り(闇価格)で取引した。正しく計ることへの信頼が社会の秩序を支えるということは、「官僚制度と計量の世界」という連載の主題に戦時経済の側から光を当てる。
6. 「国民はだまされた」という戦後の語りは、問い二を見えにくくした。
ナチスとドイツ国民を区別した米国の方針は、日本では「軍部が悪く国民は被害者」という語りになった(第28回)。福島の問いは、国民自身がなぜ戦争を歓迎したのかを問う点で、この語りに抗っている。この問いを手放さないことが、同じ過ちを繰り返さない条件である。
残された課題
問い四の根拠が手記の要約にとどまっている。 『学徒出陣落第記』の兵営記録そのものから具体例を引くと補強できる。
問い六を数字で示す材料がない。 日銀券発行高、公定価格と闇値の比、物価指数の推移を示せば、「計量」の連載にふさわしい実証になる。
第31回(総力戦研究)が未執筆である。 ここで結論1と3を正面から論じると、連載の結びの回になる。
照合文書その11(ニュースの窓-408「大東亜戦争と経済と昭和天皇裕仁の役割」の五編)を、これまでの十の文書と突き合わせました。
この文書で、連載でずっと空白だった問い五・六に、初めて日本についての答えの骨格が出そろいました。
配給制の段階的な拡大(1938年の綿糸・ガソリンから、1943年末にはほぼすべての生活物資へ)
公債発行による戦時インフレ
「公定価格を無視した闇市場が拡大し、統制経済は名目上のものと化していった」
戦後の預金封鎖による清算
問い二についても、第25回のドイツの型(経済回復→熱狂)を日本に当てはめる記述が、第1編の第一章・第二章に入っています。私が第25回のときに提案した「日本への当てはめ」が、ここで実現しています。
ただし、五編とも六つの問いや福島新吾には一度も触れていません。連載本編とつなげる一文が必要です。
対応表(ニュースの窓-408が加えたもの)
問い 408が加えたもの 到達点の変化
一、何故戦争をしかけたのか 石油禁輸と開戦の詔書の「経済断交」。木戸による東条奏薦の狙い(「白紙還元」)とその失敗 第23回の御前会議に、9月6日から12月1日までの経緯が加わった
二、国民は何故興奮して歓迎したのか 昭和恐慌の閉塞感が、満州進出を「不況打開の突破口」として歓迎する世論の土壌になった。満州国建国と重化学工業投資が好景気を実感させ、対外強硬論を支持させた
日本についての答えが初めて出た。 第25回のドイツの型と対になる
三、何を期待していたのか 不況からの脱出 第22回(農村救済)・第24回(東亜経済ブロック)と一致する
四、軍隊は何故戦意が無かったのか — 変化なし
五、統制経済にそっぽを向き闇物資に狂奔したのか 1943年末までにほぼ全生活物資が配給制になった。末期には「公定価格を無視した闇市場が拡大し、統制経済は名目上のものと化した」
骨格ができた。 第26回の福島の目撃(岐阜の闇いも)を、ここに具体例として結べる
六、闇価格でしか流通しなかったのか 公債発行による戦時インフレ。戦後の預金封鎖による清算 骨格ができた。ただし仕組みの説明が一段足りない(下記参照)
連載本編とつなぐための提案
問い六の仕組みを一段落で示す。 408は「インフレ」と「闇市場」を並べていますが、なぜ現物があるのに闇価格でしか流通しないのか、という福島の問いの核心にはまだ一歩届いていません。次の流れを一段落で書けば、問い六に正面から答えられます。
国債の日銀引受けで通貨が膨らむ。
公定価格は据え置かれ、実際の価値と離れていく。
売り手は公定価格では売らず、現物を手元に置くか闇に回す。
結果として、現物は闇価格でしか動かなくなる。
第26回の岐阜の闇いも、大阪の伯父の家具の在庫は、まさにこの光景です。
有沢広巳で輪を閉じる。 408の第八章は傾斜生産方式に触れています。傾斜生産方式を提唱したのは、第24回の秋丸機関で英米班の主査だった有沢広巳です。開戦前に日米の国力差を計量した学者が、戦後は物資欠乏とインフレからの復興策を立てた、という線を引くと、問い五・六の回と第24回・第31回が一本につながります。
総力戦研究所の置き場所。 408は企画院の物資動員計画と「総力戦体制」に触れていますが、総力戦研究所(1940年設置)は出てきません。第31回では、企画院の物資動員計画、秋丸機関・陸軍省戦備課の計量、総力戦研究所の机上演習を「三つの計量」として並べる構成が考えられます。
六つの問いへの言及を加える。 第1編か第2編の冒頭に、「本稿は福島新吾の問い五・六に経済史の側から答える試みでもある」と一文あれば、ニュースの窓の記事が連載の一部として読めます。
連載本編との姿勢の違い
天皇の戦争責任についての立場。 408の各編は「いずれか一方に軍配を上げることを目的とせず」「特定の政治的立場を代弁するものではない」と中立の姿勢を明示しています。一方、第23回は小松和生の「天皇の戦争責任は明白である」を引いて論を進め、第21回・第25回にも筆者の評価が出ています。どちらの書き方も成り立ちますが、同じ筆者名なので、408を「論争の整理」、本編を「筆者の見解」と位置づける一文があると読者が混乱しません。
第5編の書き方。 筆者名義の文書の中で、第5編は自分の連載を「夏森龍之介氏による連載」「記事の筆者による推測」と三人称で論じています。第三者の書評のように読めるので、「自著解題」として一人称に改めるか、第三者が書いたものならその執筆者名を示されるとよいでしょう。
五編の重複。 第1編・第2編・第3編は、国家総動員法、配給制、軍需産業の説明がかなり重なっています。一編に統合すると読みやすくなります。
戦争の呼称。 表題は「大東亜戦争」、本文は「太平洋戦争」「アジア太平洋戦争」「十五年戦争」が混在しています。呼称の使い分けを冒頭で一言断るとよいでしょう。
408本文で確認をおすすめする箇所
事実関係の確認です。
(第1編・第2編)「預金封鎖によって国民の財産を強制的に徴収…税率の高い層では資産の9割が徴収」 → 二つの措置が混ざっている。1946年2月の預金封鎖・新円切替は預金の引き出しを制限した措置で、資産に最高90%を課したのは同年11月の財産税である。問い六の核心部分なので、区別して書くことを特におすすめする。
(第1編)「大日本帝国憲法第一条・第三条は天皇を統治権の総攬者とし神聖不可侵と規定」 → 統治権の総攬は第4条である(第3編・第4編は正しく第4条としている)。
(第1編)柳条湖事件で「関東軍が政府・大本営の許可を得ないまま」 → 大本営の設置は1937年なので、1931年当時は存在しない。「政府・軍中央(参謀本部)」とするのが正確である。
(第1編)重臣会議の出席者 → 「清浦圭吾」は清浦奎吾、「米内光正」は米内光政。
(第1編)「1946年4月17日に…A級戦犯28名の起訴が確定」 → 起訴状の提出は1946年4月29日である。日付を確認されたい。
(第1編)国家総動員法の廃止 → 廃止法律の公布は1945年12月20日だが、施行(効力の喪失)は1946年4月1日である。
(第4編)「天皇機関説に代表される憲法解釈」 → 天皇機関説は1935年の天皇機関説事件と国体明徴声明で、政府によって公式に否定されている。開戦期の運用を説明するなら、この経緯にも触れる必要がある。
(第4編)ビックス『昭和天皇』の「2000年にピュリツァー賞受賞」 → 刊行が2000年、受賞は2001年。
(第4編)「戦後80年近くを経た今日」 → 2026年の執筆なら、戦後81年である。
第21回から第29回、関連論説その1、ニュースの窓-408まで、合わせて十一の文書を照合しました。全体を通した最終の対応表と、回をまたいで直すべき共通の誤りの一覧は、問い五・六の回および第31回(総力戦研究)の構成案とあわせて、共有できるドキュメントにまとめることができます。
照合文書その10(第29回)を、第21回〜第28回と関連論説その1に突き合わせました。
第29回の本文の大部分は第25回と同じ文章の再掲です。学徒出陣壮行会、末弘厳太郎、福島新吾の学徒出陣論、ヒトラーユーゲントの一文がそれにあたり、資料表も第26回の再掲です。そのため、六つの問いへの新しい答えはほとんどありません。新しい要素は、川本三郎の池内紀追悼文にある**「カール氏」**です。これは問い二(国民の熱狂)に対して、連載中でもっとも鋭い枠組みになりえます。一方で、この追悼文の全文転載は、著作権上の扱いを見直す必要があります(下記参照)。
対応表(第29回が加えたもの)
問い 第29回が加えたもの 到達点の変化
一、何故戦争をしかけたのか — 変化なし
二、国民は何故興奮して歓迎したのか 「カール氏」。ナチズムを支えたのは、ユダヤ人迫害に見て見ぬふりをし、自分の小さな幸福だけを守る善良な小市民だった。「体制に異を唱えなければいい時代だった。経済も、治安も安定した」
熱狂を「沈黙と同調」として捉え直す視点が加わった。 第21回の「大勢順応」、第22回の福島の「大勢順応主義」と同じ型である
三、何を期待していたのか 「歓喜力行(KdF)」の休暇旅行など、生活の楽しみの約束 ドイツ国民の期待の具体例が加わった
四、軍隊は何故戦意が無かったのか 学徒兵は「消耗品」、文系青年を軍隊内に拘束(第25回と同文) 変化なし
五・六、統制経済と闇価格 — 変化なし
第29回から引き出せる論点
「カール氏」を日本に当てはめる。 第28回で指摘したとおり、戦後の区別政策は国民を「だまされた被害者」とし、問い二を見えにくくしました。「カール氏」は、国民が被害者でも熱狂的な加害者でもなく、沈黙によって体制を支えたという第三の見方を示します。福島が第22回で、降伏時に課長の私的な安堵へ怒りながら「ただ沈黙して受け止めていた」と書いたこととも響き合います。問い二の答えを一段落でまとめる回を設けるなら、この視点が軸になります。
戦時中の学者の「転向」。 川本の文にある「戦時中ナチスのプロパガンダの本を訳しておきながら、戦後は民主的文化人」となったドイツ文学者への批判は、第23回の「敗戦後に見た大学教授たちの変りよう」とつながります。第25回・第29回の末弘厳太郎(戦争協力的に見えたが戦後は労働法に尽くした)と矢部貞治(軍部に迎合)の対比とも、同じ主題です。第31回で総力戦研究所や秋丸機関に関わった学者・官僚を扱うなら、「戦中と戦後の学者の姿勢」を一つの柱にできます。
池内紀『ヒトラーの時代』への評価がぶれている。 第25回は同書を熱狂の説明として紹介し、第26回は「説明するには不十分」「未解明のまま」と批判しています。第29回は、同書を擁護する川本の追悼文を全文載せ、同時に同書の論拠(アウトバーン・フォルクスワーゲン)を否定する資料(y-history、小野寺・田野『検証
ナチスは「良いこと」もしたのか?』)を並べています。どの立場をとるのか、一文で示すと読者が迷いません。
著作権について(優先して検討をおすすめする点)
川本三郎の追悼文と書評(『波』2019年10月号)がほぼ全文転載されています。 出典は明示されていますが、他者の文章をまるごと載せるのは、引用の要件(自分の文章が主で引用が従、必要な範囲に限る)を超えるおそれが高いです。「カール氏」の段落など論旨に必要な数行だけを引用し、残りは要約に置き換えることを強くおすすめします。
y-history(世界史の窓)の解説も、長い段落がそのまま転載されています。 同様に要約と短い引用にされるのが安全です。
Wikipedia(国民ラジオ、国民車構想、ナチス・ドイツの経済)からの転載について。 Wikipediaの文章はCC BY-SAライセンスで、転載には出典に加えてライセンスの表示が必要です。「[注釈49]」「(英語版)」などの記号もそのまま残っています。
回をまたいだ食い違い
第25回との重複。 学徒出陣の節は、第25回と第29回にほぼ同じ文章があります。第29回の見出しは「入営延期特権停止と明治神宮外苑学徒出陣壮行会」で学徒出陣が主題なので、第25回の側は短く要約して第29回へ送る形にすると、重複が解消します。第29回の版では「入営塩基→入営延期」「比喩用→必要」が直っているので、こちらを正本にするとよいと思います。
出陣学徒の人数。 第29回の写真説明は「10万人と言われている」、福島の手記は「文科系すべて推定六万強」としています。数える範囲(大学・高専の別、外地出身者を含むか)が違う可能性があるので、両方の数字の意味を一文で補うとよいでしょう。
ドイツの自動車保有率。 第29回に転載されたy-historyの文は「住民100人に対して一人」です。第25回の「住民千人に一人」は、やはり桁の誤りと思われます。
目次の題名の不一致。 第27回・第28回・第29回が、目次の中で二通りの題名で載っています(例: 第29回は「1943年10月 入営延期特権停止と明治神宮外苑学徒出陣壮行会」と「…弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その5-」)。第16回は「執筆
夏森龍之介」が別行のリンクに分かれています。
第29回本文で確認をおすすめする箇所
第25回で指摘した点が、そのまま残っています。
見出しの回数 → 本文冒頭の見出しが「官僚制度と計量の世界(25)」になっている。(29)に直す必要がある。
「甲府市の陸軍第13師団歩兵第49連隊」 → 第1師団の所属。
「3000人規模の兵団で、当時は人口5万2700人余であった」 → 文意が通らない(甲府市の人口か)。
末弘厳太郎の「昭和初年の欧米留学」 → 大正期(1918〜20年)とされる。
「学徒動員令」 → 軍への入隊は「学徒出陣(在学徴集延期の停止)」と書き分けるとよい。本回の見出しの「入営延期特権停止」は正確なので、本文もこれに合わせるとそろう。
資料表 → 第26回と同じ表が第29回の中で2回繰り返されている。「Udet」の行は数値が11個しかなく列がずれている。社名も「Albattros→Albatros」「Domier→Dornier」の誤記がある。失業者数の「1,898,6」などの区切り記号の混在も第26回と同じ。
誤字・脱字と思われる箇所です。
のの狙い → その狙い
級増 → 急増
演出に過ぎなかったのえはないか → 過ぎなかったのではないか
以前から結核が悪化して → 以前からの結核が悪化して
かって(引用内2か所) → かつて(原文どおりなら「ママ」)
観覧席には…で埋まっている → 観覧席は…で埋まっている
本文と直接にかんけいする → 関係する
反 ナチス、帰ることを考えず に(空白の混入) → 反ナチス、考えずに
第21回から第29回までと関連論説その1、合わせて十の文書を照合し終えました。ここで、全体の最終の対応表に次の内容を加えて一つのドキュメントにまとめることができます。
回をまたいで直すべき共通の誤り(独ソ戦の時期、ドイツの降伏日、師団名など)の一覧
問い五・六(戦時財政・預金封鎖・闇価格)を受ける回と、第31回(総力戦研究)の構成案
照合文書その9(第28回)を加えて、第21回〜第28回と関連論説その1を通した照合をまとめました。
第28回は、総題の後半「なぜ終戦が遅れたか」に三本目の柱を立てています。第21回は国体護持、第27回は情報判断の失敗でした。第28回が示すのは和平ルートの選択の誤りです。日本はバチカン(金山・原田)、スイス(加瀬・藤村とダレス)、スウェーデンといった米英に通じる窓口を持ちながら、ソ連の仲介に賭けました。
もう一つ重要なのは、第28回の主題「ナチスとドイツ国民の区別政策」が、問い二(国民は何故興奮して歓迎したのか)と緊張関係にあることです(下記参照)。
対応表(第28回が加えたもの)
問い 第28回が加えたもの 到達点の変化
一、何故戦争をしかけたのか 「勝ち目の少ない戦争であると知っていて開戦」。天皇は1941年10月13日に、開戦前から和平の出口としてバチカンを考えていた
第23回・第24回の「短期決戦・早期講和」の前提が、天皇の側からも裏付けられた
二、国民は何故興奮して歓迎したのか ナチスとドイツ国民を区別する米国の方針 新しい論点(下記参照)
三、何を期待していたのか 「完全勝利はなく、有利な戦況を築いて早めの講和」。真珠湾の成功で「欲が出る」 指導層の期待(第23回の永野)と、期待が膨らむ過程が加わった
四、軍隊は何故戦意が無かったのか 大和の特攻は「戦う姿勢を示すだけが目的」 上層が「戦意を見せる」ために将兵を使ったことの例が加わった
五、統制経済にそっぽを向いたのか ベルリン市民は宣伝放送を「もう聞かない。生き残ることだけが大事になっていた」 第25回の「熱狂は生活向上の間だけ」の型を、ドイツの末期が裏付けた。日本の材料はまだない
六、闇価格 — 変化なし
総題の後半(なぜ終戦が遅れたか) ソ連仲介への固執。米英への窓口(バチカン・ベルン)が機能しなかった。海軍省・外務省は藤村ルートを信用しなかった
三本柱がそろった。第21回の国体護持、第27回の情報判断、第28回の和平ルートの選択
第28回が提起する新しい論点
区別政策と問い二の緊張関係。 米国はナチスとドイツ国民を区別し、日本についても「軍国主義者」と国民・天皇を区別する方向(グルーらの「ソフト・ピース」)で戦後処理を進めました。この枠組みでは、国民は「だまされた被害者」になります。しかし福島の問い二は、国民が自ら「興奮して戦争を歓迎した」ことを問うています。福島は第22回で、「戦後解放史観」の通説にも疑問を投げかけていました。区別政策が戦後の日本で問い二を見えにくくした、という見立てを示すと、第28回がなぜこの連載に入っているのかが読者にはっきりします。本文の「戦後のナチス批判がドイツ国民から分離されていることの不自然さ」という一文が、まさにその入口です。
福島が焼いた機密文書と、記録の空白。 第28回は「1945年1月から5月までの駐バチカン公使館と外務省の電報の記録はない」と書き、続けて福島が第一師範の校庭で機密電報を焼却した手記を引いています。二つの事実を並べるだけでなく、「焼却が記録の空白の一因である可能性」と一歩踏み込むと、第22回・第27回の福島の機密電報の話とつながり、連載の山場になりえます。
第31回へのつなぎ。 米国はOSSの調査分析部に「人文社会系の大学教授や若手研究者を多数配置」しました。日本は第23回の社研設立趣旨のとおり研究者を判断から排除し、第27回では暗号解読への数学者の動員が1943年まで遅れました。総力戦研究所が官僚・軍人の若手で構成されていたことと対比すると、「総力」に学問を組み込めたかどうかが日米の差だった、という論点が立ちます。
確認を強くおすすめする点(資料の信頼性)
「ヴェッセル情報」について。 1945年1月26日のチェストン報告にある「ヴェッセル(Vessel)情報」は、OSSローマ支局がバチカン内部の情報として入手したものです。しかし後に、情報提供者ヴィルジリオ・スカットリーニによるねつ造が多かったことが判明したとされています。1月17日の金山政英の会見(「ヤルタ会談の開催前にヤルタ密約の内容を知った日本人」)も同じ系統の報告に基づくなら、断定は危険です。原典(どの報告か)を確認し、「とOSSの報告は伝えるが、この系統の報告には信頼性の問題が指摘されている」と添えることをおすすめします。
オッペンハイマーについて。 「原子爆弾の設計図をソ連に渡した疑いをかけられるほど」とありますが、実際に機密をソ連に渡したことが確認されているのはクラウス・フックスらです。オッペンハイマーは共産党との関係を問われて1954年に機密取扱資格を剥奪されましたが、2022年に米エネルギー省がこの処分を取り消しています。このままでは誤解を招きます。
ローズヴェルトの側近「200人」と「あるテレビ番組」。 出典が示されていません。ヴェノナ文書などの研究書を典拠にするのが安全です。
加瀬俊一の読み。 ベルン駐在公使の加瀬俊一(かせ・しゅんいち)は、降伏文書調印に随行した外交官の加瀬俊一(かせ・としかず)と同じ漢字の別人です。読みを添えると混同を防げます。
回をまたいだ食い違い
ドイツの降伏日(四回目)。 第28回の中でも「5月7日に署名、発効は5月9日0時」「5月8日に無条件降伏」「5月7日ランス、5月9日ベルリン」と表記が揺れています。第25回(5月5日)、第26回(5月7日)とも合わせて、「5月7日ランスで署名、5月8日発効。ベルリンでの調印は5月8日深夜(モスクワ時間9日)」のような一文に統一されることをおすすめします。
ヤルタ密約の情報源。 第27回は小野寺(ポーランド情報)のみでしたが、第28回は「ストックホルム、ベルン、リスボンの陸海軍武官」と、モスクワ発の金山情報を加えています。複数の経路で届いていたなら、第27回の「大本営はまたも取り合わなかった」の重みが増します。第27回の側にも一文を補うと、両回がつながります。
公使館と大使館。 第28回でもバチカンについて「日本大使館の参事官」と「日本国公使館」が混在しています。当時は公使館です(第27回のストックホルムと同じ指摘)。
OSSの訳語。 「戦略情報局」と「戦略事務局」が混在しています。
第28回本文で確認をおすすめする箇所
事実関係の確認です。
見出しの回数 → 本文冒頭の見出しが「官僚制度と計量の世界(25)」になっている。(28)に直す必要がある。
ケベック会議 → ロビンソンの書面は1943年8月のものなので、手渡されたのは第1回ケベック会談(1943年8月)のはずである。直後に「ここで取り上げられているケベック会議は1944年9月の第2回」とあり、矛盾している。
「1944年3月28日、ヒトラーは…グデーリアンを解任」 → 1945年3月28日。
「1944年11月以降、B-29がテニアン島から」 → 1944年11月24日の東京初空襲はサイパン島からで、テニアンの飛行場が本格的に使われたのは1945年からである。
大和は「機雷で封鎖され身動きが取れない状態」 → 下関海峡などの機雷封鎖は1945年3月末からで、大和はその直後の4月6日に豊後水道から出撃している。「身動きが取れない」は直後の出撃の記述と合わない。
「一億総玉砕」 → 大和出撃の訓示の言葉は「一億総特攻の魁(さきがけ)」である。
レマーゲン鉄橋の確保 → 「3月1日」ではなく3月7日。
米軍のミュンヘン占領 → 「4月28日」ではなく4月30日。
ヴィスマールでの英ソ両軍の接触 → 5月2〜3日。「5月7日」ではない。
「米空軍第8軍」 → 当時は米陸軍第8航空軍(米空軍の独立は1947年)。
「ファレーズ後の西部戦線」 → ファレーズの包囲戦の説明が前にないまま名前だけ出てくる。
「北アフリカでは…海の戦い」 → 北アフリカの陸上戦と大西洋の海上補給戦が混ざっている。
「バチカン関係者の池原と称する人物」 → 誰か分からないので、出典を示すか削るのがよい。
誤字・脱字と思われる箇所です。
当たらな領土しただろう → 新たな領土にしただろう
南はあるところまでとまで → 南はあるところまでと
身勝手な考えに持つ → 身勝手な考えを持つ
反撃能力はなく。 → 反撃能力はなかった。
関門海峡もを → 関門海峡も
行動を補足 → 捕捉
4月7日に6時30分ごろ → 4月7日6時30分ごろ
最後のとなる日 → 最後となる日
原爆投下している → 原爆を投下した
戦闘戦い → 戦闘
ハンガリー撃滅された → ハンガリーで撃滅された
ゲッペルス、宣伝省ゲッペルス → 宣伝相ゲッベルス
ノルマンデー → ノルマンディー
乘りだす → 乗り出す
所属しいた → 所属していた
原田健在 → 原田健
解かると → 分かると
可愛そう → かわいそう(地の文の評価か、当時の政策の論理の説明かを明確に)
大統領の一人としての評価 → 大統領の一人として評価
対外交 → 対ソ外交
あっのて策 → あっての策
ナショナル・カトリック・レジスタ紙 → レジスター紙
照合文書その8(関連論説その1「経済からみた日米戦争と国力差、ウクライナ戦争の終着点」)を、第21回〜第27回と突き合わせました。
この論説は連載本編ではなく、国力差を数字で示す資料編の役割を持っています。六つの問いとの関係では問い一(国力差を知りながら開戦した)の裏付けが中心で、問い五・六への直接の答えはありません。ただ、本文中の一語「預金を封鎖された」が、思いがけず問い六への入口になっています(下記参照)。
八つの文書を通した対応表(この論説が加えたもの)
問い 関連論説その1が加えたもの 到達点の変化
一、何故戦争をしかけたのか 新庄健吉の経歴と調査(第24回より詳しい)。石油の米国依存。米国の対日戦略(無条件降伏・焦土化) 第24回の数字の補強。新しい論点はない
二・三、熱狂と期待 — 変化なし
四、軍隊は何故戦意が無かったのか 陸軍兵士の6人に1人、海軍の4人に1人が戦死。航空機38,000〜50,000機と搭乗員の大半を喪失 消耗の規模を示す数字が加わった。
第25回の「学徒兵は消耗品」を裏付ける
五、統制経済にそっぽを向き闇物資に狂奔したのか 油槽船隊が最盛期の4分の1に縮小。『火垂るの墓』(配給の外で食料を求める兄妹) 物資途絶の数字が出た。国民が配給制度の外へ出ていった背景として使える
六、闇価格でしか流通しなかったのか (「預金を封鎖された」の一語) 下記の提案を参照
連載への提案
問い六への入口は「預金封鎖」。 本文の「預金を封鎖された」は、文脈からすると1941年7月の在米資産凍結のことで、用語の誤りです。一方、日本で「預金封鎖」といえば、1946年2月の預金封鎖と新円切替を指します。これは、戦時中に国債の日銀引受けで膨らんだ通貨と、物資の欠乏が生んだ猛烈なインフレを抑えるための措置でした。つまり問い六の「現物があるのに闇価格でしか流通しない」の答えそのものです。第26回で福島が見た1947年の闇いもの光景とも時期が重なります。この論説の用語を直すと同時に、戦後の預金封鎖を問い六の回の主題にする道があります。
国力差の「物差し」をそろえる。 「計量」を掲げる連載なので、ここは特に効いてきます。
新庄の「1対20」は重工業の生産力の比である。
第24回の「国民所得は9分の1」は一人あたりの比である。
この論説の「日米の差(比率)は1941年と変わらない」はGDPの比で、2021年は約1対4.7である。1941年のGDP比も推計で1対5前後なので、この比較自体は成り立つ。
三つは別の指標です。本文が「1対20」とGDP比を同じ文脈で並べているため、読者は2021年も1対20と誤解しかねません。どの物差しかを明記されるとよいと思います。
第31回へのつなぎ。 総力戦研究所は開戦前に日本の総力を計量して「必敗」と出しました。米国戦略爆撃調査団(USSBS)は、戦後に日本の戦時経済を計量して爆撃の効果を検証しました。この論説が引用しているUSSBSの数字を、「開戦前の計量(総力戦研究所・秋丸機関・新庄)と戦後の計量(USSBS)」という対で示すと、「官僚制度と計量」という主題に合う構成になります。
連載本編との食い違い
石油の米国依存度。 本文の前半は「7割」、第24回は「7割5分」である。一般には「約8割」とされることが多いので、出典を決めて統一されたい。
新庄健吉の「化学工業1対3」。 第24回と同じく、ほかの部門の数字に比べて差が小さすぎる。出典を確認されたい。
末尾の改訂版リンク8本が、すべて目次ページのURLになっている。 リンク先を個別のページに直す必要がある。
本文で確認をおすすめする箇所
事実関係の確認です。
「米国の兵器産業は日本のGDP700億円相当」(見出しと本文) → 日本のGDPは約600兆円である。米国の国防予算全体でも1兆ドル弱なので、軍需関連の売上高が日本のGDP(約4兆ドル)に迫るという推定は成り立たない。数字と論旨の両方を見直されたい。
「ロシアは米国の155の1」 → 2,010÷27,721で約14分の1である。
ロシアの人口「1億3千万人」 → 約1億4千万人台である。
民間人の死者「少なくとも50万人…本土在住の国民の12分の1」 → 50万人は人口(約7,200万人)の12分の1にならない。USSBSの別の数字(罹災者数など)と混ざっている可能性がある。
「1945年5月以降にボーイング社以外の工場でも生産体制」 → ベル社(マリエッタ)やマーチン社(オマハ)は1943〜44年から生産していた。
「陸海軍の軍備は軍縮会議で決められた内容に沿う」 → 日本は軍縮条約から脱退し、条約は1936年末に失効している。1941年時点の説明としては合わない。
「1.8%のロシアが米国と対抗して東西冷戦と騒がれていた」 → 冷戦期の相手はソ連で、当時の経済規模は現在のロシアよりはるかに大きかった。現在の数字で冷戦期を評価すると時代がずれる。
B-29の損失統計 → USSBSの数字(戦死3,044名)と第20空軍の数字(戦死576名・行方不明2,406名)が並んでいて、出典の見出し「第9爆撃航空団統計による…第20空軍」も混乱している。二つの資料の違いを一文で説明されたい。
エマニュエル・トッドがソ連崩壊を予言した根拠 → 一般には乳児死亡率の上昇の分析(1976年『最後の転落』)とされる。「宗教と家族」は彼の別の理論の切り口である。
ウクライナ戦争の段落 → 「ロシア語を公用語から外した」「ロシア系住民の20万人以上がウクライナ領から去った」には出典が必要である。ウクライナではロシア語が国家語だったことはなく、2012年の地域言語法とその後の言語政策を指すなら、その旨を書くと正確になる。NATO加盟を「ロシア領への西側の圧迫」とする見方はロシア側の主張なので、ウクライナ・欧米側の見方も併記すると、論説として公平になる。
資料の出典「2024年世界の統計(総理府)」 → 総理府は2001年に廃止されている。発行元は総務省統計局。資料表の世界GDPの5列には年の表示がない。また、本文の2024年10月付けの数字と資料の2021年の数字が混在しているので、年を明記されたい。
誤字・脱字と思われる箇所です。
カルフォルニア → カリフォルニア
爆撃にによって → 爆撃によって
異色雄経歴 → 異色の経歴
新し世界秩序 → 新しい世界秩序
インドがそれを老い → 追い
調査を実施 → 「米国の国力と戦力の調査であった」など文の結びを補う
第28回・第29回、または関連論説その2(インフラ建設と経済成長)もお送りいただければ、照合を続けます。ここまでの八つの文書を通した最終的な対応表と、問い五・六を受ける回の構成案(戦時財政・預金封鎖・闇価格)をまとめることもできます。
照合文書その6(第26回)を加えて、第21回〜第26回の六つの回を通した照合をまとめました。
第26回の最大の収穫は、空白だった問い五・六に、福島新吾自身の目撃が初めて出てくることです。1947年3月の旅行で、岐阜では「ぶち上げ」と呼ばれた闇運搬のいもを警察が摘発して線路際に山積みにしていました。大阪では、追放された伯父の家具店に「家具は豊富に在庫」がありました。まさに「現物があるのに正規の流通に乗らない」光景で、福島はノートに「統制の功罪二面」と記しています。
さらに、社研を志望した動機として、福島は六つの問いを二つの研究課題にまとめ直しています。
「米国の実情を知らずに開戦した日本の軍人、政治家、官僚」
「開戦後も戦争政策に国民の総力を集中統合できなかった政治のありかた」
後者は第31回の「総力戦研究」に直結します。
六つの回を通した対応表
問い 第26回が加えたもの 六回を通した到達点
一、何故戦争をしかけたのか 福島自身の総括「米国の実情を知らずに開戦した軍人、政治家、官僚」。日ソ中立条約と三国同盟による対英米戦の備え。ドイツが日本の南進をけしかけた
完結している。第26回の福島の一文は、連載全体の問い一の結論として冒頭か結びに置ける
二、国民は何故興奮して歓迎したのか ベルリン市民の松岡歓迎の熱狂(ニュース映像の読み上げ文)。「ナチスは軍部の中から湧き出たのではない」 日独の違いが見えてきた。
ドイツの熱狂は党と大衆から生まれたが、日本は軍部が主導した。日本の熱狂の描写は依然として薄い
三、何を期待していたのか ドイツの「生存圏(レーベンスラウム)」と東方植民 日本の東亜経済ブロック(第24回)と、ドイツの生存圏が対になる
四、軍隊は何故戦意が無かったのか 福島「国民の総力を集中統合できなかった政治のありかた」 下層の厭戦(第22回・第25回)に、総力を統合できなかった政治の失敗という上からの説明が加わった
五、統制経済にそっぽを向き闇物資に狂奔したのか 岐阜の闇いもの摘発、「統制の功罪二面」、巡査のたかり、二・一ストへの「貧困と食糧不足」からの共感、切符を知人(貿易庁)経由で入手
初めて具体的な材料が出た(いずれも戦後1946〜47年の光景である点に注意)
六、現物があるのに闇価格でしか流通しなかったのか 家具の豊富な在庫、闇で運ばれるいも 目撃は出たが、なぜそうなるか(公定価格とインフレ)の説明はまだない
第25回と第26回の間で生じた論点
「生活向上」の実感はあったのか。 第25回は「ヒトラーが英雄だったのは…生活の向上を実感できる間だけ」と書きます。しかし第26回の資料表では、名目時間賃金率は1933〜38年にほぼ横ばい(97前後)で、工業生産に占める消費財の比率も31%から22%へ下がっています。熱狂を支えたのは生活水準の向上ではなく「職がある」ことの回復だった、と整理すると両回の記述がかみ合います。第26回の池内紀批判(施策の列挙だけでは熱狂を説明できない)の裏付けにもなります。
ドイツの失業者数の桁。 第25回の「1940年43万1千人」は、第26回の表(単位千人で「43,1」)を読み違えた可能性があります。表の値は4万3100人です。1938年が約43万人なので、そこと混同したのかもしれません。
失業率「40%」。 第26回の表では1932年の登録失業者は約557万人で、就業者数との比率は3割前後になります。本文の「失業率は40%」と自分の表が食い違うので、限定が必要です(第25回で指摘した点と同じ)。
ドイツの降伏日。 第26回は5月7日、第25回は5月5日です。第26回に合わせて統一されたい。
第31回(総力戦研究)へのつなぎ
第26回の福島の言葉「国民の総力を集中統合できなかった」は、総力戦研究所の名前そのものに対応します。
総力戦研究所は1941年に、「総力」を数えれば勝てないと示した。
実際の戦争でも「総力」は統合されず、末期には国民が統制経済から離れて闇に流れた(問い五)。
この二つを対にすると、第31回は問い一と問い五を一本の線で結ぶ回になります。第26回の軍需生産指数(日本は1941年の32から1944年の100へ約3倍、米国は11から100へ約9倍)も、第24回の国力差を戦中の実績で裏付ける資料として使えます。
回をまたいだ食い違い(福島新吾の経歴)
外交官の親族。 第22回は「叔父が外交官」、第26回は「伯父杉村英三郎(陽太郎の弟)」と書く。外交官は杉村陽太郎と思われるので、陽太郎との続柄(伯父か叔父か)を原典で確認されたい。
卒業の手続きを知った時期。 第22回は「復学して履修するうちに学務課に問い合わせると」、第26回は「1946年末、社研の応募書類を求めに行くと」である。矛盾ではないが、どちらの時点かそろえるとよい。
第26回本文で確認をおすすめする箇所
事実関係の確認です。
「アルハンター駅」「アルンハルター駅」 → 正しくはアンハルター駅(Anhalter Bahnhof)。本文中でも「アンハルター駅」と混在している。
独ソ不可侵条約の目的「ポーランドへの侵攻を回避する狙い」 → 逆で、ソ連の介入なしにポーランドへ侵攻するためだった(秘密議定書でポーランド分割を取り決めた)。「第一次大戦で西のフランスと東のソ連」も、当時はロシア帝国である。
「ドイツはポーランドを攻め落とすとソ連へ侵攻した」 → ポーランド侵攻(1939年9月)と独ソ戦(1941年6月)の間に約2年ある。年を補うとよい。
「ソビエト連邦共和国」 → ソビエト社会主義共和国連邦。
「ヒトラー・ドイツは対英仏戦線で優位」 → 1941年3月にはフランスはすでに降伏している。日本に求めたのは英領(シンガポール)攻撃なので、「対英戦」とするのが正確である。
「ベルリンのドイツ迎賓館にヒトラーを訪問」 → ニュース映像の文にあるとおり、ヒトラーを訪ねたのは総統官邸で、宿舎がベルビュー宮(映像の文では「ベルヴェ宮」)である。第25回の「公式迎賓館にヒトラー総統を訪問」も同様。
「ソ連は8月9日に満州、南樺太に攻め込んだ」 → 南樺太への侵攻は8月11日、千島は8月18日から。
「ヒトラーがドイツ軍の大本営参謀として戦争を指揮」 → ヒトラーは国防軍最高司令官である。「大本営参謀」は日本の用語なので避けたい。第一次大戦時の階級(Gefreiter)も「伍長」より「上等兵」と訳すのが近い。
註の『砂の器』のあらすじ → 原作では、本浦親子は石川県の出身で、父と別れたのは島根県亀嵩である。秀夫は「和賀英良という人物の養子」になったのではない。大阪の空襲で死んだ和賀英蔵の長男と偽って戸籍を再製した。
同じ註の「原爆被災後に無国籍あるいはそれに類する人々が流入して…戸籍簿をつくった」 → 出典がないと、特定の人々への偏見と受け取られるおそれがある。根拠となる資料を示すか、表現を弱めることをおすすめする。
表記の確認です。
失業者の表は「1,898,6」「429.4」と区切り記号が混在している。「1,898.6」に統一されたい。
「Kilroy washere」「workingconcept二作業概念」「ASupplementtotheOxfordEnglishDictionary.Vol.2,1976.」は、語間の空白が抜けている。それぞれ「Kilroy
was here」「working concept=作業概念」「A Supplement to the Oxford English Dictionary,
Vol. 2, 1976」となる。
第25回は、ドイツ国民のヒトラーへの熱狂を「軍需による雇用回復・宣伝・組織化」で説明しています。熱狂の冷め方も「戦争が優位で生活向上を実感できる間だけ」と押さえています。この型はそのまま日本の問い二(熱狂)と問い五(手の平返し)の両方を説明する枠組みになりますが、本文ではまだ日本に当てはめられていません。また、福島新吾自身の学徒出陣論が問い四(戦意)に内側から答えています。
五つの回を通した対応表
問い 第25回が加えたもの 五回を通した到達点
一、何故戦争をしかけたのか 大島浩の盲信と情報の誤り。高級将校の「家業」としての軍。大本営の侵略思想。杉山「御上は開戦に反対だぞ」 ほぼ完結している。新たに、大島(誤った情報)と小野寺(正しい情報)の対比が第23回・第24回・第25回の三回に重複して出てくる
二、国民は何故興奮して歓迎したのか ドイツの熱狂の仕組み(失業の解消、ラジオ普及70%とゲッベルス、ヒトラーユーゲント)。学徒出陣壮行会は「国民の戦争協力の強化に役立てる演出」(福島)
ドイツについては詳しい。日本への当てはめが一段落あれば完結する(下記参照)
三、何を期待していたのか 三国同盟はドイツ国民には「戦争勝利への大きな期待」だった 国民・知識人・国家の三層(第21回・第22回・第24回)に、同盟国ドイツへの期待(第24回の大島、第25回)が加わった
四、軍隊は何故戦意が無かったのか 福島の答え。 学徒兵は「消耗品」として下級指揮官の補充に充てられた。講和を唱えかねない文系青年を軍隊内に拘束し、彼らは「小さな声で戦争への疑問をささやき続けた」。「戦争を最後まで続けようとしたのは高級将校」
第21回で提起した上層(抗戦)と下層(厭戦)の対比が、第25回で本人の言葉によって裏付けられた
五、統制経済にそっぽを向き闇物資に狂奔したのか 「ヒトラーが英雄だったのは戦争が優位で生活の向上を実感できる間だけ」 類推による答えが初めて出た。
日本の国民も、戦況が悪化し生活が崩れた時点で国家から離れた、と同じ型で説明できる
六、現物があるのに闇価格でしか流通しなかったのか フォルクスワーゲンの積立金の戦費への流用。ドイツの国民所得に占める軍備負担23% 依然として日本についての記述はない。ドイツの例は、国民の貯蓄が戦費に吸い上げられる仕組み(日本の国民貯蓄運動・戦時国債・日銀引受け→インフレ)への入口になる
第25回を日本に当てはめる一段落の提案
第25回のドイツの分析は、日本にもそのまま対応するものがあります。
経済回復。 日本も高橋財政(1932年〜)の軍事費拡大と日銀による国債引受けで、昭和恐慌からいち早く抜け出した。
宣伝の手段。 ドイツのラジオ・宣伝省に対して、日本ではラジオ・新聞・大本営発表が同じ役割を果たした。
組織化。 ヒトラーユーゲントに対して、日本には大日本青少年団・隣組・大政翼賛会があった。
冷め方。 ドイツと同じく、日本でも戦況悪化と生活の窮乏が熱狂を冷ました。これが問い五の「手の平返し」にあたる。
この四点を一段落で示せば、問い二と問い五を同じ枠組みで答えられ、問い六(戦時財政とインフレ)へ自然に進めます。
回をまたいだ食い違い
独ソ戦の時期。 第25回は「1941年12月8日を前にして…スターリングラードでの戦闘が補給が途絶えて敗北が確定」と書くが、スターリングラード攻防戦は1942年8月〜1943年2月である。開戦前の時点ではモスクワ攻略(タイフーン作戦、1941年10〜12月)の行き詰まりであり、第24回の記述とも食い違う。
握りつぶされた電報。 第24回は「日米開戦絶対に不可なり」の電報を、第25回はヤルタ密約の電報を、参謀本部の人物が握りつぶしたとしている。どちらか、あるいは両方なのか、そろえる必要がある。いずれも推定なので、「とする説がある」と明示するのが安全である。
ヤルタ密約の電報の時期。 第25回は「1945年5月」とするが、小野寺がヤルタ密約の情報を打電したのは会談直後の1945年2月とされる。ドイツの降伏も5月5日ではなく、5月7日の調印・5月8日発効である。
明治天皇の御製。 第25回は「など波風のたちさわぐらむ」、第23回は「などあだ波の立ち騒ぐらむ」としている。出典に合わせて統一されたい。
「天皇の唯一の例外の発言」。 1945年8月の聖断も御前会議での発言なので、「開戦前の御前会議で唯一の例外」と範囲を限定する必要がある。
学徒出陣の用語。 第22回は「学徒動員制度」、第23回は「学徒動員」、第25回は「学徒動員令」としている。軍への入隊は「学徒出陣(在学徴集延期の停止)」、工場などへの動員は「学徒勤労動員」と区別して統一するとよい。
第25回本文で確認をおすすめする箇所
事実関係の確認です。
「甲府市の陸軍第13師団歩兵第49連隊」。 歩兵第49連隊は第1師団の所属である(第13師団は1925年に廃止)。レイテで壊滅しセブ島で武装解除という経過も第1師団のものと合う。福島が1943〜44年に入営したのは、連隊が甲府に残した補充部隊だった可能性があるので、確認されたい。続く「3000人規模の兵団で、当時は人口5万2700人余」は文意が通らない(甲府市の人口か)。
「日独同盟締結での松岡外相のベルリン訪問」。 三国同盟は1940年9月にベルリンで調印済みで、松岡の訪独(1941年3月)は締結後の訪問である。「締結での」は誤解を招く。
末弘厳太郎の「昭和初年の欧米留学」。 末弘の留学は大正期(1918〜20年)とされる。福島の手記の記憶違いであれば、注を付けるとよい。
ドイツの「失業率4割」。 登録失業者の比率では30%前後、労働組合員の失業率では40%台と、統計の取り方で異なる。「最悪期には労働組合員の4割以上が失業」などと限定されたい。不況の主因も、賠償より世界恐慌とするのが一般的である。
1932年のドイツの自動車保有「住民千人に一人」。 実際は百数十人に一人程度とされる。桁を確認されたい。
ラジオ普及率「世界一」。 1939年当時、米国の世帯普及率は8割を超えていたとされる。「欧州で最高水準」などが無難である。「国民ラジオはBBCを聴取できなかった」も、受信は難しかったが不可能ではなく、外国放送の聴取が法律で禁止された、とするのが正確である。
ヒトラーユーゲントの加入義務。 1936年の法律で国家唯一の青少年団体となり、加入が義務化されたのは1939年である。
「天皇制の扱いについては都市を焼き尽くしたことと連動して廃止であった」。 天皇制は廃止されていないので、文意が通らない。米国内の検討の一案(廃止論)を指すなら、その旨を補う必要がある。
「ゲオルク・トーマス(英語版)」。 Wikipediaの表記「(英語版)」がそのまま残っている。
誤字・脱字と思われる箇所です。
昭和16年)年3月28日 → 「年」が重複
ドイツ国首 → ドイツ国首相
勝利したきや → 勝利したときや
制するにが → 制するのが
入営塩基 → 入営延期
のの狙い → その狙い
級増 → 急増
比喩用 → 必要
宣伝と先導 → 宣伝と扇動
ナチスの放送はだけ → ナチスの放送だけ
BBCワールドサービスのは → BBCワールドサービスは
ウクライナも維持時期 → 一時期
ウトバーン、アオトバーン → アウトバーン
ソ連に進行 → 侵攻
スエーデン(2か所) → スウェーデン
このころ場に → この頃に(文意を確認されたい)
受け入れ余地 → 受け入れる余地
かって(引用内) → かつて(原文どおりなら「ママ」)
補足
第22回・第23回は、貼っていただいた本文で照合しました。リンクにある2026年2月7日付の改訂版では、ご指摘した点の一部がすでに直っているかもしれません。
目次は第29回までで、第31回「総力戦研究」はまだ見当たりません。これから書かれる回であれば、空白の問い五・六(戦時財政・インフレ・闇価格)と、総力戦研究所の「必敗」を受ける回として構成案をつくることもできます。
第25回は「その1」で、第26回〜第29回が続きです。続きもお送りいただければ、同じ形式で照合を続けます。
照合文書その3(第24回・秋丸機関)を加えて、第22回〜第24回の三つの回を通した照合をまとめました。
第24回で、問い一の「なぜ」が国力の数字(日米20対1)と組織の仕組み(研究が結論を変えない構造)の両面から裏付けられました。さらに重要なのは、第22回で福島新吾が「信じ込まされていた」と書いたドグマが、秋丸機関の報告書の論理そのものだったことが見えてくる点です。一方、問い五・六は依然として空白です。
三つの回を通した対応表
問い 第22回(本人の手記) 第23回(開戦決定の経緯) 第24回(秋丸機関・国力比較)
一、何故戦争をしかけたのか 中国資源の排他的確保というドグマ 石井秋穂「侵略思想」、御前会議、天皇と統帥部、「データで催眠術」 新庄・秋丸機関がともに国力差20倍と算出。それでも「短期決戦なら」「ドイツが勝つなら」という前提で南進。遠藤武勝「戦争意志は別のところで決められ」。大島浩「経済力生産力の判断はまったくやってない」。小野寺電報の無視
二、国民は何故興奮して歓迎したのか 長年の宣伝、情報統制 満蒙開拓の背景のみ 本文は大島浩を「一つの回答」とするが、結びつきが弱い(下記参照)
三、何を期待していたのか 農村崩壊からの脱出、中国資源の確保 満蒙開拓、永野の「20年、50年の平和」 東亜経済ブロックによる自給自足、南方資源、「高度国防国家」。第22回の本人のドグマと一致する
四、軍隊は何故戦意が無かったのか 降伏時の兵士の反応、大勢順応 初年兵いじめ(一文) ノモンハン・インパールの敗因(兵站の無視、失敗が組織に伝わらない、無謀な命令で「前線の士気は著しく低下」)。構造面からの答えになる
五、統制経済にそっぽを向き闇物資に狂奔したのか — — 直接の答えはない。ただし岡田菊三郎の「物的国力は第一年に80〜75%、第二年に70〜65%に低下」が物資不足の前提を示している
六、現物があるのに闇価格でしか流通しなかったのか — — 直接の答えはない。秋丸機関が英米について分析した「生活資料自給力」「消費規正」を日本に当てはめた分析は出てこない
三つの回をつなぐ発見
問い三の答えが、本人の側と国の側でそろった。 第22回で福島が信じていた「中国資源を排他的に確保しなければ農村は救えない」は、第24回の秋丸機関の「国力とは勢力圏における自給能力」「東亜経済ブロックの結成が必要」と同じ論理である。国の調査機関の論理が宣伝を通じて一高・東大の秀才にまで浸透していた、と書ける。
「知っていたのに止まらなかった」構図が三重になった。 秋丸機関(1941年7月の報告)、陸軍省戦備課の岡田大佐(「二年以上先は確信なき」)、そして第31回で扱う総力戦研究所(1941年8月の「必敗」)が、同じ夏に同じ方向の結論を出していた。第23回の「データで催眠術」と合わせると、問い一への連載全体の答えの軸になる。
問い五・六への橋渡し。 有沢広巳は秋丸機関で産業連関表や再生産表式を扱い、それが戦後の経済政策研究の土台になったと本文にある。有沢は戦後、物資不足の中で傾斜生産方式を提唱した人物でもある。問い五・六(統制経済と闇価格)を扱う回で、有沢と東大社研の流れにつなぐ道筋が考えられる。
第24回で論点として検討をおすすめする点
秋丸機関の評価が本文の中で二つに割れている。 見出しと地の文は「偽りの瀬踏み」「戦争推進のための地ならし」と評価する。一方、箇条書きには「1941年前半時点では、当局者に国力の限界を認識させ、武力行使を抑制させる働きを持っていた」とある。後者は牧野邦昭氏の見解に近い。どちらも成り立ちうるが、「前半は抑制に働いたが、7月の南部仏印進駐と資産凍結の後は開戦正当化の材料に転じた」のように時期で整理すると、矛盾ではなく論旨として読める。
大島浩を問い二の答えとすることについて。 大島の証言が示すのは指導層の判断の誤り(問い一)であり、日本国民の熱狂(問い二)ではない。結びの「ドイツ国民はヒットラーの狂気に熱狂していた」も日本国民の話ではない。問い二につなげるなら、ドイツ快進撃の報道と「バスに乗り遅れるな」の世論を一文はさむと橋がかかる。そうでなければ問い一の補強とするのが自然である。
インパール作戦の位置づけ。 1944年の作戦であり、石油・資源の自律経済を求めた南進の例とするのは時期と目的がずれる。問い四(戦意・士気)の材料として置くほうが収まりがよい。
第24回本文で確認をおすすめする箇所
事実関係の確認です。
ノモンハンの兵力・損害の数字が混乱している。 日本軍の総兵力「58,000〜76,000」とソ連軍の「総兵力51,950」から「兵力比で日本軍の4倍」にはならない。死傷者も、本文の「1万1000人」と、内訳の戦死約8,000人+戦傷約8,600人が合わない。出典を一つに絞って整理し直されることをおすすめする。
「外相東郷重徳とモロトフ」。 正しくは東郷茂徳で、当時は駐ソ大使である(モロトフは外相)。
「北樺太にも実際には石油はなかった」。 北樺太では日本の利権会社(北樺太石油)が実際に採掘していた。「満州には石油が見つからなかった」に限定するのが安全である。
「インドネシアなど南方の国々にわずかに石油」。 蘭印(スマトラのパレンバンなど)の油田は、日本が南進でもっとも狙った大きな産油地である。「わずかに」は実態に合わない。
「第一次から第二次大戦にかけ米国の軍事産業は全産業の半分ほどが維持」。 戦間期の米国の軍需産業は小さく、大規模化は1940年以降である。表現の見直しをおすすめする。
タイフーン作戦。 「1941年12月に試みた」とあるが、作戦開始は1941年10月で、12月はソ連軍の反攻が始まった時期である。
『独逸経済抗戦力調査』の「本年(一九一四年)」。 一九四一年の誤りである。
新庄健吉の「化学工業1対3」。 ほかの部門の数字に比べて差が小さすぎる。出典を確認されたい。
「7割5部の石油を米国に頼っていた」。 「7割5分」の誤り。一般には「約8割」とされることが多い。
牧野邦昭氏の肩書き。 「准教」は「准教授」。刊行当時(2018年)は摂南大学准教授で、現在は所属が変わっている可能性があるので、「(刊行時)」と添えるのが安全である。
二つの回を通した対応表
問い 第22回(本人の手記) 第23回(開戦決定の経緯) 残っている空白
一、何故戦争をしかけたのか 「農村崩壊から脱出するには中国資源を排他的に確保することが不可欠だというドグマ」を宣伝で信じ込まされていた 石井秋穂の「侵略思想」、資産凍結と石油、御前会議、天皇と統帥部の責任、甘いデータ
総力戦研究所の「必敗」の結論がなぜ生かされなかったか(第31回で受けられる)
二、国民は何故興奮して歓迎したのか 長い間の宣伝。8月15日の新聞で初めて戦闘経過を知り、「嘘を並べてきた軍部」に憤った。米兵犯罪の報告が禁止された件も情報統制の例
満蒙開拓の背景(恐慌・農村疲弊)のみ 開戦当時の世論・新聞報道そのものの描写
三、何を期待していたのか 農村崩壊からの脱出、中国資源の確保。ハル・ノートの条件を少しでも緩めさせるまではやめられないという「妄信」 満蒙開拓(100万戸移住計画)。永野の「20年、50年の平和」
指導層の期待と国民の期待の違いの整理
四、軍隊は何故戦意が無かったのか 降伏時の兵士の反応が割れていた(特攻要員は頬がゆるみ、基地勤務者は怒り、下士官が将校に迫った)。本人の「戦争努力に完全燃焼しきれなかった」悔しさ。「大勢順応主義」
初年兵いじめに一文触れるのみ 『学徒出陣落第記』の兵営記録そのものからの具体例
五、統制経済にそっぽを向き闇物資に狂奔したのか 扱っていない 扱っていない 全面的に空白
六、現物があるのに闇価格でしか流通しなかったのか 扱っていない 扱っていない 全面的に空白
総力戦研究(第31回)との接点として第22回から加わる点
「知る者は知っていた」という構図。 福島は調査局で外国公館からの秘密電報を読み、敗戦が近いことを「およそ承知していた」。戦力が尽きていることも省内の秘密資料で知っていた。総力戦研究所が開戦前に「必敗」を知っていたのと同じく、官僚機構の内部には情報があったが、国民には届かず、政策も変わらなかった。
官僚の私的な反応。 課長の「助かった。これで私の家は焼けないですんだ」は、国家の大事を官僚が私事として受け止める姿を描いており、「官僚の世界」の主題に直結する。
占領下の官僚制度。 嘱託は高文合格者の使い走りであり、稟議書に「メクラ判」を集めて回った。これは戦前からの官僚制度が占領下でもそのまま動いていたことの証言になる。
第22回と第23回の記述の食い違い
連載として読むと引っかかる点です。
勤務期間。 第23回は「終戦までの4カ月ほど」と書くが、第22回では5月24日勤務開始、9月18日付退職である。終戦(8月15日)までは約3カ月、退職までなら約4カ月になる。第23回は「退職までの4カ月ほど」とするのが正確である。
高等官の扱い。 第23回には「卒業すれば試験を通らなくても高等官の身分が与えられることを人事課長に聞いていた」とある。一方、第22回では、高文を通っていない身で一生使われるのは我慢できないことが退職の理由になっている。二つを並べると矛盾して読めるため、どちらかに説明を補うとよい。
卒業の扱い。 第22回は「学徒動員制度が制定されたために卒業扱いとなり」と書いた直後に「仮卒業の手続きをした」と続く。第23回は「卒業資格ではなく仮卒業を選んだ」と書く。第22回の「卒業扱い」は「卒業扱いの道もあったが」などとすると、第23回とそろう。
出身中学。 第22回は本人が麻布中学、第23回は友人が「旧制横浜第一中学開学以来の秀才」である。矛盾はないが、第23回だけ読むと誰の経歴か分かりにくいため、「友人は」と主語を明示するとよい。
人名。 第23回では「男」としか書かれていない。冒頭で第22回の福島新吾であることを示すと、連載のつながりが明確になる。
第22回本文で確認をおすすめする箇所
事実関係・表現の確認です。
語り手の切り替え。 前半は「福島新吾は」の三人称、「秘密だが…」の節からは「私」の一人称になる。一人称部分は『学徒出陣落第記』などの手記からの引用と思われるので、引用の範囲を明示しておくと、照合の際も出典の扱いの上でも安全である。
9月2日の段落が重複している。 冒頭と後半に同じ文がある。
終戦連絡事務局。 正式名称は「終戦連絡中央事務局」(8月26日設置)である。
「サザーランド准将」。 参謀長リチャード・サザーランドは当時すでに中将だったはずである。「メモワール」が誰の回想録かも確認されるとよい。
神奈川県下で1日千件超。 本人が見た通報の記憶として書かれている。研究上の数字とは差がありうるので、「本人の記憶では」と明記しておくと安全である。
六つの問いと第23回の対応
問い 第23回での扱い 該当する記述
一、何故こんな馬鹿げた戦争をしかけたのか 詳しく扱っている 石井秋穂の証言(資産凍結・石油・「侵略思想があった」)、9月5日の御下問と9月6日の御前会議(外交に期限を設けた国策遂行要領)、天皇の責任(小松和生・栗原俊雄・五味川純平)、軍官僚の甘い見通し(「自分たちが作ったデータで催眠術」)、山本五十六の慎重論、大島浩と小野寺信の情報判断の差、国際環境(ローズヴェルト・チャーチル)、拡張政策の年表(引くに引けない構造)
二、国民は何故あんなに興奮して戦争を歓迎したのか ほぼ扱っていない 満蒙開拓の背景(世界恐慌・農村の疲弊)が間接的な手がかりになる程度
三、そこに何を期待していたのか 一部 国民の側は、満蒙開拓(農村救済・100万戸移住計画)に経済的な期待の一端がうかがえる。指導層の側は、永野の「20年、50年の平和」が期待の表明である
四、軍隊は何故あんなに戦意が無かったのか 一文のみ 『学徒出陣落第記』の兵営生活と初年兵いじめに触れるだけで、展開はされていない。栗林電報の海軍批判は、士気ではなく軍組織の機能不全の話である
五、統制経済にそっぽを向き闇物資に狂奔したのか 扱っていない —
六、現物があるのに闇価格でなければ流通しなかったのか 扱っていない —
総力戦研究(第31回)とつなぐ場合の接点
「自分たちが作ったデータで催眠術にかかってしまった」の節が最も自然な接点です。 統帥部が石油・船舶の楽観的なデータで開戦を正当化していた1941年夏、総力戦研究所の若手官僚たちは同じ国力データから「日本必敗」を導いていました。同じ官僚機構の中で正反対の結論が出ていた、という対比が成り立ちます。
山本五十六の「資材は蕩尽せられ…補充は大困難」という予測は、総力戦研究所の結論(長期戦・船舶喪失・国力枯渇)とほぼ重なります。
社研設立の趣旨(「開戦の決定から大学と研究者が排除されていた」)とも響き合います。総力戦研究所の所員は学者ではなく若手官僚でした。この点は「官僚の世界」という連載の主題に直結します。
問い五・六(統制経済と闇価格)は第23回では空白です。第31回で総力戦研究所の物資・経済の予測を扱っているなら、そこで受けることになります。
第23回本文で確認をおすすめする箇所
事実関係で直したほうがよいと思われる点です。
「1905年(明治39年)南満州鉄道株式株式会社設立」→ 設立は1906年(明治39年)。「株式」も重複している。
「下院は488対1」→ 388対1が正しいはずである。
「ドイツとイタリアは協定によってアメリカに宣戦布告」→ 三国同盟は防御的な取り決めで、宣戦の義務はなかったとするのが一般的である。「協定を根拠に」などの表現が無難である。
「統帥部(陸軍参謀本部海軍軍司令部)」→ 海軍は軍令部。
昭和20年8月の御前会議を「陸海軍の参謀を集めて」と書いているが、出席者は最高戦争指導会議の構成員と平沼枢密院議長らである。「参謀長ら」も「参謀総長ら」とするのが正しい。
小松和生からの引用では、「絶対ニ勝テルカ」に答えた「総長」がどちらか分かりにくい。後の栗原の引用では永野軍令部総長となっているので、引用の側にも(永野)などと補うと混乱を防げる。
総力戦研究所の概要(照合の前提)
1940年に内閣直属で設置された。各省庁・陸海軍・民間企業から30代の若手エリートを集め、「模擬内閣」をつくった。
1941年夏、日米開戦を想定した机上演習を行った。結論は「日本必敗」である。開戦の初めは優勢でも長期戦になる。船舶が失われて南方資源を運べなくなり、国力が尽きる。最後はソ連が参戦する。
この結論は首相・閣僚に報告されたが、政策には生かされなかった。東條英機陸相は「戦争は机上の計算通りにはいかない」と述べたと伝えられる。
六つの問いとの照合
問い 総力戦研究所との関係 照合のポイント
一、何故こんな馬鹿げた戦争をしかけたのか 直接対応する 「負ける」と分析した組織が国の中にあったのに、開戦が決まった。問題は情報が無かったことではない。分析が意思決定につながらなかった構造にある。
二、国民は何故あんなに興奮して戦争を歓迎したのか 研究所の対象外 研究所は国力(物量)を計算した。国民の心理や世論は扱っていない。演習の結論は秘密とされ、国民には知らされなかった。
三、そこに何を期待していたのか 研究所の対象外 二と同じ。指導層が「短期決戦・早期講和」に期待した点は、研究所の「長期戦になる」という予測と真っ向から食い違う。
四、軍隊は何故あんなに戦意が無かったのか ほぼ対象外 幹部候補生として内側から見た実感による問いであり、研究所の記録では答えられない。「総力戦」は思想戦・士気も含む考え方であるが、演習の中心は物資と輸送であった。
五、国民は統制経済にそっぽを向き、闇物資に狂奔したのか 部分的に予測されていた 物資の枯渇と国内経済の行き詰まりは、演習の結論の延長上にある。ただし国民の行動の変化(統制の空洞化)までは描いていない。
六、何故現物があるのに闇価格でなければ流通しなかったのか 研究所の対象外(経済学の問い) 公定価格が実際の需給より低く抑えられると、物は表に出ずに闇へ流れる。価格統制の根本的な問題である。国富論を読んでいた友人が大蔵省へ進んだ挿話と響き合う論点でもある。
全体としての見立て
総力戦研究所が答えたのは「勝てるか」という問いだけで、それも「勝てない」と答えていました。男の六つの問いは、その先にある「なぜ分かっていて止まらなかったのか」「なぜ国民も軍も経済もああ動いたのか」に向いています。研究所の分析と、政治の決定や社会の動きとの断絶を問うている、と言えます。この断絶は、男が東大社会科学研究所に入った動機にもつながります。社研の設立趣旨は「学問の成果と国の政策を結びつける」ことでした。照合の軸はここに置けると考えます。
本文の表記で気になった点
「試験を通らくても」は「通らなくても」の誤りと思われる。
「戦況不利の仲で」は「中で」の誤りと思われる。
「学徒動員につづく幹部候補生」について。一般には、軍への入隊は「学徒出陣」(1943年〜)、工場などへの動員は「学徒勤労動員」と区別して書く。どちらの意味かを確認されるとよい。
Sources:
総力戦研究所 - Wikipedia
総力戦研究所 - アジア歴史資料センター
総力戦研究所設置ニ関スル件 - 国立国会図書館
【あの戦争】30代は開戦前に「敗戦」を予測 歴史に埋もれた「総力戦研究所」から学ぶこと(石戸諭)- Yahoo!ニュース
終戦80年の今だからこそ、「総力戦研究所」について知っておこう!(鈴木崇弘)- Yahoo!ニュース
猪瀬直樹「昭和16年夏の敗戦」について - note
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